三国志を解釈する(2)
【三国志を解釈する】(2)三国志が現代に伝えた遺産 「義」とは?
「三国志演義」は「義」をテーマとしています。この長い物語の巻頭は、劉備、関羽、張飛が張飛の屋敷の裏にあった桃園で血の繋がらない義兄弟として誓いを結んだ「桃園結義」(桃園の誓い)です。 では、この「義」とは何でしょうか。
「義」とは、最も一般的な意味で、人間としての正しさ、世間で生きるべき道理のことです。そのため、「義」とは正しいもので、また私利私欲のものではありません。道徳的だからこそ、人にはそれぞれの身分や義務があります。また、自分の立場でやるべきことをやらないことが不義であり、それは人間としての真理に反することになるのです。誰であろうと、あるいは何か立場があれば、無私無欲でやるべきことをやるべきであり、それはあなたの責任で、回避することはできません。 他にも「正義を貫く」という表現もあり、「義」は逃れることのできない道徳的な義務なのです。
例えば、古代の君臣、夫妻がそれぞれの義務と責任を理解し、君主には君の道理(仁義)、臣には臣の道理(忠義)があり、夫妻にも同じくありました。君臣、夫妻、師弟、友、親子などどのような人間関係の中にいても、どのような身分に属していても、すべての人にはそれぞれの義務があり、それぞれが守る道理は異なりますが、いずれも「義」の範囲のものです。 「義」の共通点は、正義であり、無私であり、他人のために行動し、人がするべきことをなすことです。
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