心優しいウクライナの人々(Shutterstock)

私の思い出のキエフ「温もりと風格の街」(4)

(前稿から続く)

 

10 広場で見たこと

ある年、私はある用事があって、キエフの中心部へ行きました。

ちょうど広場では、共産主義に反対する人々の集会が行われていました。反共の旗を振るウクライナ人が、たくさん来ています。警察の機動隊がその現場を何重にもとりまいて、守っていました。

私はそこへ歩いて行き、いつも携帯している「(中共がやっている法輪功迫害の)拷問の写真」を人々に見せました。

私がそこを去る時、ひとりの武装した警察官が私に目配せして、ひそかに親指を伸ばします。「君に共感し、支持するよ」。

彼は屈強な機動隊員です。にもかかわらず、その目はとても穏やかで優しいものでした。

中共の凶暴な警察官とは、雲泥の差です。

 

11思い出と現在とのギャップ

キエフ以外の都市へも、何度か旅行に行きました。

その街の地理に詳しくないので、道を聞く必要がでてくるのですが、そんな時、私はウクライナの警察官に道を聞きます。彼らは、外国人の私を助けてくれると心から信じているからです。

もちろん、なかには良くない警察官もいるのですが、私が知る限り、ごくわずかです。

ウクライナに住んだ10年以上のなかで、たった一度だけ、私に賄賂を要求した警察官に会ったことがあります。

パソコンの画面から伝えられるニュースは、連日、キエフやその他の街が無残に破壊された姿を映しています。

そんなパソコンの検索に疲れ果てた私は、閉ざされた記憶のなかから、美しい思い出の断片を検索して、自身を慰めています。

そして、印画紙にプリントされた古い写真を見ます。

当時の私のクラスメートは、華やかな民族衣装を着て学院のステージに立ち、歌をうたっています。

キエフの中心部の広場では、元気な若者たちが楽しそうに民族舞踊を踊っています。

学校訪問したある中学校では、子供たちが古代ギリシャ神話の演劇を披露してくれました。

 

(次稿に続く)

 

(翻訳編集・鳥飼聡)

 

関連記事
1271年、モンゴルのフビライ・ハンが元を建て、初めての漢民族以外の皇帝となりました。その後、数十年にわたり、中国はかつてない規模の帝国となり、元は文化の多様性と国際貿易の栄えた時代となりました。
明の最初の皇帝・太祖の生い立ちは、朝廷生活とはほど遠く、彼は朱元璋と名付けられた農民の子供でした。彼は最初、僧侶の道を歩みましたが、モンゴル主導の元が朝廷内の闘争で弱体化する中で反乱軍に参加し、まもなく右に出るもののいない軍事家として才気を発揮することとなりました。
清朝(1644-1911年)は、中国最後の統一王朝で、満州族により統治されました。末期の数十年には、軍事的敗北、内紛、経済の疲弊が次々と襲いかかりました。
道教で用いられるハタキは、動物の毛と麻を合わせたもので、木製の柄がついています。道家の道士や僧侶は、ハタキを携えて修業の旅に出ます。
古代中国では、二輪の戦車は戦場に欠かせない乗り物でした。紀元前2000年ごろの夏(か)の時代に現れ、歩兵や武器を戦場で移動するために使われました。