古典の味わい

【古典の味わい】貞観政要 12

貞観2年のこと。太宗は、諌議大夫の魏徴(ぎちょう)を呼んで、こう訊ねられた。

「魏徴よ。古来、明君(名君)といい、また暗君というが、その違いはどこにあるか」

魏徴は、こう答えた。

「臣、謹んでお答え申し上げます。君が聡明である理由は、多くの人の意見を聞いて、その良いところを採るからでございます。これに対し、暗君である理由は、片方の言うことばかりを信じて、考えが偏るからです。『詩経』には、古の賢者は薪(まき)を拾うような卑しい身分の人の言葉にも耳を傾けて聞いた、とあります」

さらに続けて、魏徴はこう太宗に述べた。

「その昔、(ぎょう・しゅん)の御代には、四門を開き、四目を明らかにすることで、四聡を達成しました。その聖なる輝きの、照らさないところはありませんでした。そのため、政治の妨げになるような者どもも、尭舜のあらわす政道を惑わすことができなかったのでございます」

 

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太宗は常に、耳の痛いことを遠慮なく直言する諌議大夫の魏徴を側において、あるべき政治の道を述べさせました。

もちろん太宗は、多くの場合、自身が分からないから答えを求めたのではありません。

自身が承知していることでも、それを魏徴の口から言わせることを念頭において、そうしたのでしょう。

皇帝が臣下の諫言に耳を傾けることの重要性は、まさに今、太宗が魏徴にそれを実践していることで説得力をともない、政治の場のみならず、天下万民に広がる普遍性をもちます。

それを太宗は、自身の天命ととらえていたようです。魏徴もよくその御心をわきまえていて、太宗を諫める言葉にあえて手加減はしませんでした。魏徴が手本として示す政治は、古の聖王である尭や舜の理想政治です。

五経の一つである『詩経』からの引用部分は、原文の「民」を「人」に改めてあります。これは太宗の諱(いみな)である世民(せいみん)の一字を避けた結果ですが、太宗は「上に立つ君主が過てば、民が不幸になる」を常に戒めとし、人民の安寧を願いました。

その名前にもある「民」の存在を、太宗は国の基盤として重んじたのです。

 

(鳥飼聡)

 

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