【千古英雄伝】チンギス・カンーー「大草原の王者」(二)

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モンゴルの崛起

金の第5代皇帝・世宗(せいそう)はモンゴルの勢力を抑えるために、3年ごとに北上して遊牧民たちを虐殺していました。これに加えて、各部族間の戦いもあるため、遊牧民たちは非常に苦しんでいたのです。このような歴史的背景の下、統一と安定はすべての遊牧民の切実な願望となりました。

勢力を盛り返したテムジンは卓越した政治的・軍事的才能を発揮し、まずは、 やジャムカの助けを得てタタル部族やメルキト部族などを破り、その後、トオリル・カンと協力してジャムカを負かしました。しかし、結局、オン・カン(トオリル・カン)とも仲違いし、テムジンは兵力を集結してケレイト部族を破ったのです。1205年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、ついにモンゴル高原を統一しました。

モンゴル統一の偉業を果たしたテムジンはチンギス・カンとして即位し、モンゴル帝国を開きました。
 

チンギス・カンの西征

チンギス・カンが北で即位した頃、南では金・西夏・南宋の三国鼎立(三者が天下を三分して並び立つ)の局面が続いていました。モンゴル帝国を開いた後、チンギス・カンは領地拡大の計画を実行に移し始めました。まずは兵を挙げて西夏を臣服させ、その後、金に出兵して燕京(現在の北京)を包囲・陥落させました。以降、黄河より北の領地はすべてモンゴル帝国が所有し、金もやむを得ず南の開封に首都を移したのです。

 

1215年、開封への遷都を責めて、モンゴル軍、中都を包囲する。(『集史』パリ本:パブリックドメイン)

 

この頃、チンギス・カンが派遣した通商使節がホラズムで発生したため、チンギス・カンは自ら20万の兵士を率いてホラズム・シャー朝を破りました。ホラズム・シャー朝の君主が西へ逃亡したため、チンギス・カンは続いて中央アジアへと進軍し、その後、南ロシアの8万の連合軍をも破ったのです。ヨーロッパ東部、イラン北部、そして、インドなどの地域を占領して領地を拡大した後、チンギス・カンはモンゴルに帰還しました。

広大な領土を統治するため、チンギス・カンは息子たちに分封し、その後、ジョチ・ウルス、チャガタイ・ハン国、イルハン朝などの政権が形成されました。

西征時、チンギス・カンはかつて西夏に助けを求めましたが、西夏は拒否しただけでなく、金と同盟を結んだのです。その後、チンギス・カンは自ら軍を率いて西夏を攻めました。しかし、途中、突如、病にかかり危篤に陥りました。西夏の征服を目前にしているので、相手に反抗の闘志を抱かせてはならず、そして、自軍側の士気も下がってはいけないと、チンギス・カンは自分の死を秘密のままにするよう子孫たちに命じました。間もなくして、モンゴル軍は西夏軍を破り、西夏王朝を滅ぼしました。

(つづく)

(翻訳編集 天野秀)

阿哲