モンゴル系の騎馬兵による追撃戦(『集史』ベルリン州立図書館蔵本:パブリックドメイン)

チンギス・カンーー「大草原の王者」(三)【千古英雄伝】

勇敢なモンゴル兵

モンゴルの男性は幼い頃から乗馬、ブフ(モンゴル相撲)、弓術の訓練を受けなければなりません。乗馬は放牧や移動手段として基本的に誰もが身に付けなければならない技術で、ブフは身体を鍛え、格闘スキルを磨くためのもの、弓術は狩猟や敵と戦う時になくてはならない戦闘スキルです。この3つの技能は、将来、厳しい環境の中で生存していくために、モンゴル男性なら誰でも身に付けなければならない必須項目だったのです。

チンギス・カンは遊牧民族の特徴に基づいて一連の戦闘技術を開発しました。中でも馬術の訓練が最も重んじられ、各戦士はそれぞれ2~3頭の馬を同時に操ることができ、次々と乗り換えることができます。そのため、モンゴル兵は速いスピードで長距離移動ができ、その長所をもって敵の不意を突いて攻撃することができました。例えば、チンギス・カンがモンゴル兵を率いて金を攻める時、一昼夜で250km進んだのです。このことからも、モンゴル兵の勇敢さが伺えます。

チンギス・カンの大軍が行く先々で勝利を収めることができたのは、彼が勇戦奮闘しただけでなく、他と同盟を結び、敵を孤立させ、一つ一つ順次に敵を撃破していったからです。これも、チンギス・カンが得意としている戦略です。例えば、モンゴル帝国の建国前、タタル部族を攻撃するため、チンギス・カンは金と手を結びました。ホラズムを攻める前も、西夏と同盟を結ぼうと計画していたのです。そして、死ぬ間際も、宋と協力して金を滅ぼすという遺言を残しています。

 

各宗教の並存

モンゴルが統一される以前、各部族では様々な宗教が信仰されていました。多くの部族ではシャーマニズムが信仰されていましたが、勢力が拡大していくにつれて、仏教や道教、イスラム教などが相次いでモンゴルに流れ込んだのです。

チンギス・カンはシャーマニズムの重要なイベントに参加するほかにも、道教の一派の全真教の道士・丘長春に説教(宗教の教義・教典を、その信者や民衆に、口頭で説き明かすこと)を頼みました。そのため、チンギス・カンの後継者もよく景教(ネストリウス派キリスト教)や、仏教、イスラム教などの宗教儀式に参加し、各地に寺院や教会、モスクなどを設けたのです。

チンギス・カンは様々な宗教の共存を認めましたが、彼の在位中、モンゴルの伝統的宗教であるシャーマニズムは重要な地位を占めていたのです。クビライが元王朝を建国してからは、徐々にラマ教が主流となりました。

 

職人を殺さない

チンギス・カンは宗教だけでなく、敵国の長所や技術をも受け入れました。例えば、中原を攻める時、数々の先進武器の製造技術を学び、ホラズムを西征した時も、多くの職人をモンゴルへ連れて帰ってきたのです。このため、モンゴル軍は先進の攻城武器を製造し、500人の砲兵部隊を設け、戦闘能力を大きく向上させました。

チンギス・カンは能力のある職人を重視していたため、その後、職人に危害を加えることが禁じられるようになり、このことによって、中原や西洋の栽培や製織、武器製造など様々な技術がモンゴルへ流れ込んできたのです。これらの外来技術は、モンゴルの経済発展を促しただけでなく、農業や畜産業の向上も促進しました。

(つづく)

(翻訳編集 天野秀)

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