天下を見通す名軍師――諸葛孔明(大紀元)

諸葛孔明――預言者か(中)【千古英雄伝】

(続き)

諸葛孔明は若い時に友人と遊学(よその土地や国に行って学ぶこと)をしていました。当時、天文学に造詣がある殷馗(いんき)という人がいましたが、彼は星の群れから、異常に明るい星をみて、占星象(天文学)からその星が大賢者であると占い、そして、見にきたところ、孔明とその友人たちを見かけました。殷馗は「星群の兆しは皆さんのことでしたか」と感嘆し、占星象を皆に教えました。

1カ月後、孔明と友人五人は司馬徽(しばき)という人物を訪ねることになりました。司馬徽は人相をよくみると言われていますが、孔明をみた途端、「臥龍」(がりゅう)と呼んだのです。司馬徽は孔明の才能に感激し、ひそかに、「あなたの才能では師に学ぶべきだ」と言って、鄷公玖(ほう こうきゅう)の弟子になることを薦めました。

▶ 続きを読む
関連記事
諸葛孔明(181年- 234年)は、三国時代の蜀漢の政治家、戦略家です。彼は天文、地理、軍事の学問に精通し、草廬(そうろ 孔明の出世前の住居)から出る前に、既に天下のことが分かっており、人間の知恵者の代表として称えられていました。彼は劉備を助けて、国土、資金、兵馬などがほとんど何もない状態から、魏国、呉国と鼎立できるほどの国富民強の蜀漢政権を築き上げました。
楽毅(がく き、生没年不明)は魏の出身で、祖父の楽羊は魏文候に仕えた武将であり、かつて中山国を滅ぼした。戦功の褒美として中山の首都・霊寿を授けられ、その後、楽羊とその子孫は霊寿に住み着いた。
現代のビジネスパーソンの皆さんは、どこまで部下に仕事を任せたらいいのか、悩むこともあるのではないでしょうか。 それでは三国志の時代、諸葛亮と馬謖、王平の3人からその仕事ぶりを確認してみましょう。
古代中国では、結婚式の際に花嫁が「紅蓋頭(ホンガイトゥ)」と呼ばれる大きな赤い頭巾をかぶる習慣がある。実は赤い頭巾を最初に使った女性は諸葛孔明の妻・黄月英であるという言い伝えがある。
三国時代のお話です。丞相(じょうしょう)の諸葛亮は劉備の遺志を継ぎ、建興6年(西暦228年)に北伐を敢行し、魏の拠点を次々と攻め落としました。しかし、武将の馬謖(ば しょく)が軍令に従わなかったため、諸葛亮が率いる蜀の軍は惨敗しました。陥落させた多くの城が再び魏に取り返され、諸葛亮らは漢中へ退くことになりました。