鴨鵝城で遼の兵士を捕える(三)【楊延昭の伝説】

(続き)

捕まえようとしていた獲物が逃げるのを見て、遼の兵士たちは武器と盾を次々と落とし、アヒルとガチョウを追いかけ水辺へ向かいました。アヒルとガチョウは逃げるために水の上を泳ぎ、それを追いかける遼の兵士たちも各々水中へと入っていきました。

しかし、水中に入っていくと、思ってもみなかったことが起きたのです。なんと遼の兵士たちは次々と泥の中に落ちていきます。遼の兵士たちは、想定もしていなかった事態に、身動きがとれず、どんどん深く沈んでいきます。すると、どこからか叫び声が聞こえ、楊延昭が兵士たちと一緒に近くの葦の影から現れました。楊延昭たちがすぐに遼の兵士の軍隊を取り囲んだため、遼兵は手を上げて降伏することしかできませんでした。

実はいうと、楊延昭が階下に降り、軍曹に直ちに隠れるよう指示した後、彼は遼の兵士がこの建物に近づこうとはしないと判断し、数羽のアヒルとガチョウを外に放し、農場の門を開けました。予想通り遼の兵士たちは罠に落ち、その後、楊延昭たちは長い鉤(かぎ)で遼の兵士を泥の中から引きずり出し、生きたまま捕らえたのです。

楊延昭は彼らを一人ずつ尋問し、村の人々に言い分があるかを聞くと、この遼の兵士たちは、たびたび来ては、盗みを働いたり、家のものを物色したりしていたといいます。楊延昭は彼らから遼の情報を聞き出し、それらはすべて事実であったため、彼らの馬を留置し、叱責することで事を済ませました。遼の兵士たちは楊延昭が彼らを殺さなかったのを見て、頭を下げて謝り、北の方向に逃げ帰りました。

楊延昭は何十年にもわたって国境を守り、河北の辺境に 2千キロメートル以上の国境要塞を建設し、宋王朝の国境を鉄の壁のように強くし、中国の文明を守り抜きました。地元の人々をなだめるだけではなく、遼王国の兵士にさえ、反逆行動を起こさない限り、すべての人を平等に扱いました。そのため敵軍である遼王国も彼を尊敬していました。 

大中祥符7年(1014年)正月七日、楊延昭は病により生涯を終えました。宋は喪に服し、皇帝・宋振宗は彼の棺を故郷に送るために護衛を派遣しました。国境を超える人々は、まるで両親を亡くしたかのように悲しみ、棺を見て涙しました。また敵である遼軍もまた、噂を耳にし、次々と追悼と敬礼を表しました。 
 
楊延昭が亡くなって間もなく、地元の人々は小さな農場を再建し、この歴史の時代を記念して鴨鵝城と名付けました。これが今の鴨鵝城の起源です。

(完)
 
参考資料:
《楊六郎威鎮三關口》《楊家將外傳》

仰岳