黄碩のおかげで、諸葛亮は、作戦計画を立てるに際して智慧を発揮することができただけでなく、子供たちのことについても賢明な選択をすることができました。(パブリックドメイン)

諸葛亮の不器量な妻

『三国志演義』で有名な諸葛亮(181~234年、字は孔明)は、漢の霊帝の光和四年に琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)に生まれました。両親を早くに亡くし、叔父に育てられました。天下大乱の時、兄弟そろって叔父と一緒に荊州(けいしゅう)に行き、「乱世の中、かろうじて生きながらえ、諸侯の中で名を上げることなど求めない」生活をしていました。

諸葛亮が結婚したのは25歳の時でした。古代、特に戦争で世の中が乱れていた頃は、15歳くらい、場合によっては13歳くらいで結婚するのが普通であり、彼のように25歳になってもまだ結婚していないのは珍しかったのです。また、彼は、条件からすれば、名家にとって理想的な婿であったにもかかわらず、何と黄碩(こうせき、『三国志演義』では黄月英、『三国志』では単に黄夫人)という不器量な女と結婚しました。

黄碩は、河南の名士・黄承彦の娘(一説には義娘)でした。名前の通り、頑丈な体付きで、髪の毛は赤茶けて、肌は黒かったのです。黄承彦は、諸葛亮の志はただ国を救うことにあり、彼が必要としているのは、徳と才能を兼ね備えた賢妻であって、名家の美人ではないと考えました。そこで諸葛亮に直接、娘との縁談を持ち掛けたところ、諸葛亮は、いとも簡単に承諾しました。実は、この結婚は、深く周到に考えを巡らした末での決断だったのです。

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諸葛亮(紀元181年〜234年)、字(あざな:本名以外につける別名)は孔明、劉備の名軍師で劉備を補佐して漢の復興を謀りました。劉備は「三顧の礼」をもって、諸葛孔明に「天下三分の計」を教わり、魏、呉、蜀の鼎立(ていりつ)時代へ導きます。『三国志』全般で「三」という数字が注目されていますが、「三」は中国文化の本質に根ざしたものです。
諸葛孔明(181年- 234年)は、三国時代の蜀漢の政治家、戦略家です。彼は天文、地理、軍事の学問に精通し、草廬(そうろ 孔明の出世前の住居)から出る前に、既に天下のことが分かっており、人間の知恵者の代表として称えられていました。彼は劉備を助けて、国土、資金、兵馬などがほとんど何もない状態から、魏国、呉国と鼎立できるほどの国富民強の蜀漢政権を築き上げました。
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