成長過程の中で、感情が正しく認識されず、受け入れられなかったり、ニーズが適切に把握されず、対応されていない場合、私たちは自分をないがしろにしています。(yosan / PIXTA)

本当の自分を見失ってない? 他人の前で操り人形にならないで

成長過程の中で、親兄弟や友人らから、感情が正しく認識されず、受け入れられなかったり、自分に取って大事な事の必要性が、適切に理解されずに、または把握されていない場合、私たちは適切に対応できずに、逆に自分をないがしろにしてしまうことがあるのです。

『姫は前を見て歩く』というある物語では、このような状態を「クローゼットに閉じ込められた女の子」として描いています。この物語の主人公はおしゃべりで、おてんばで、踊ることが大好きな女の子ですが、彼女の両親がそんな自分を恥じることが分かっていたので、彼女は「自分」という象徴をクローゼットに閉じ込めてしまうのです。そうして、両親の期待に答え、自らを正真正銘の箱入り姫として、自分を偽ってしまったのです。

これは私たちの成長環境においても、親や先生から、子供であることを否定され、大人になることを要求されるなど、特別なケースではなく、逆によく見られるケースなのです。人に好かれるために、私たちは「本当の気持ち」を隠し、「相手が求めること」を無意識に選んでしまうのです。それは直感で自分に反することかもしれません。自分の意に反していても、期待されることをしてしまう……。

長い間、自分をないがしろにすると、それが習慣化されて固定化されてしまうのです。感情やニーズ、期待にかかわらず、自分に関することには、逆に鈍くなり始め、意志はなく、ただ相手の期待する人物像に沿うだけで、他人の肯定こそが自分の原動力なのだと思い込んでしまいます。私たちはすでに自分を放棄することに慣れてしまっているのかも知れません。

私が友人(シンシン)と親友になってから、私たちは頻繁に連絡をとるようになりました。毎度のこと、彼女は私の会社の下まで向かえに来て、私たちは一緒に食事をするようになりました。家に帰ってからも、その日に起こったことや、自分の考えや気持ちについて語り合いました。とはいえ実は、私は心の底では自分が誰かと親密な関係になることを恐れていました。過去のトラウマによる息苦しさは、そう簡単に消えるものではありません。しかし今では、あれは間違いだったと思い、私はこの関係を断つことなく、変わらずに継続しています。

ある日、シンシンから「残業をするから夕飯は一緒に食べれない」とのメッセージをもらいます。すると、私は反射的に「そうなんだ、残念」と返しました。私は彼女が感動すると思い、このように返しましたが、しかし、彼女はこう答えたのです。「本当に残念だと思っているの?」

思ってもいない問いかけに啞然としました。自分の内心に問いかけてみると、別に残念に思っているわけでもなく、むしろ安心していたのです。神経を張り詰めなくても自分だけの休息時間が持てます。しかし、自分の意志に反して脳を通さずに反射的に返信したので、自分自身もそのことに驚いたのでした。

シンシンに以前、私の好みのコミュニケーション方法を尋ねられ、私はビデオ通話と答えましたが、後に私が実際にはビデオ通話は好きではないと感じたと報告してくれました。

自分でも不思議な気持ちになっていたので驚きました。なぜ自分が怒っているのか、なぜ自分が涙を流しているのか、時折わからない瞬間があったのです。そして、なぜ自分がそのような行動や反応をしたのか理解できませんでした。自分のことは分かっているつもりでしたが、シンシンとの関係の中で、私のこれまでの理解は次々と否定されて行ったのです。

私自身、よく上司と議論するので、自分では境界線がはっきりしているつもりでした。しかし実際は、仕事が忙しいからメッセージに返信できないと、親友であるシンシンにも言えず、自分が好きな連絡手段までも、選択できずに別の手段で伝えていました。だから今回も夜に会えないと聞いたとき、内心はほっとしましたが、シンシンを喜ばせようと心に反することを言ってしまったのです。自分のことは分かっているつもりでしたが、本当は全く分かっていなかったことに気づかされたのです。

もしシンシンがそれほど鋭敏でなければ、彼女は私に惑わされている可能性があります。 もし私が、自分のことをそれほどよく知らないと認めることができなければ、シンシンは私に戸惑いを感じ、私はそれを状況や出来事のせいにしたかもしれません。また、シンシンが私を誤解していると感じて、必死に説明しようとしたかもしれません。

自分に対する認識が解きほぐされ始め、私が自分で築き上げたペルソナ(仮面)を、自分に納得させるために、ある特異な出来事に選択的に依存していたことがわかりました。私は、自分が有能で、自立していて、頭がよくて、強いということが好きでした。しかし、それは見える面、私が見せている面を自ら選択していたに過ぎないのです。見たくない面は嫌われることを恐れて選択せず、無意識のうちに他人に媚びを売っていたことに気づいたのでした。

自分の認識をあらゆる文脈に当てはめてみると、それが自分ではないことに気づいて愕然としました。多くの文脈で、私の反応はあるべき一貫性を持っていなかったのです。

本当の自分はどこにいるのか

それからは、自分から着飾った虚飾の服を脱ぎ捨て、入念に作り上げたペルソナを剥ぎ取り、あらゆる瞬間に本当の自分を見るようにしました。

自分の感情を感じ取ることで、今の自分の状態が自分の理解と一致しているかどうかを確認することができます。他人の要求にはつい「イエス」と言ってしまいますが、実は怒りに満ちていたり、人間関係に不満があることがわかりました。また、対立を引き起こして関係を失うことを恐れて沈黙を選んだり、他人に否定的なイメージを持たれることを恐れて、自分から率先して発言することが少ないことにも気づきました。

自分自身を見つめ、学んでいくうちに、人間関係を怖がり、引っ込み思案な子供の姿、幼児期の自分が見えてきました。私は好き嫌いを理解しようと奮闘し、その過程で少しずつ自分自身を発見していったのです。しかし、それから10年近く経った今でも、その時々の自分の状態を認識するのは難しく、周囲の人たちから不安や恐れを思い起こさせられることが少なくありません。

 

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