壁の声を聴く手――AI時代の日本の根【日本の中の「仁義礼智信」15】
東京、2026年。
街のいたるところで、建設工事が進んでいる。
AI半導体工場が建てられている。
データセンターが建てられている。
高層オフィスビルが建てられている。
クレーンが旋回し、機械の轟音が響く。
今は、スピードが求められる時代である。
効率が求められる時代である。
そして、機械がますます賢くなっていく時代である。
しかし、その足場の上で、
一人の男が、
機械には決してできないことをしていた。
手袋を外し、
素手のひらを、
塗ったばかりの壁に当て、
目を閉じ、
じっと動かない。
彼は、左官職人である。
左官――日本の伝統的な壁塗り職人である。
日本の左官技術には、土で仕上げる「京壁」と、漆喰で仕上げる「漆喰壁」という大きな二つの系統があり、これらは総称して「日本壁」と呼ばれる。質の高い日本壁をつくるには、素材選びから施工に至るまで、高度に熟練した技術が必要となる。
「左官」という名称は、古代の宮内省で建築を担当した「木工寮」における壁塗り職人の階級名「属(そうかん)」に由来し、それが後に「さかん」へと変化したとされる。
一つの名前が、
千年以上にわたって受け継がれてきた。
奈良時代の宮廷から、
京都の寺院へ、
江戸の町家へ、
そして今日の東京の建設現場へ。
その手は、
一度も止まることなく受け継がれてきた。
壁に手を当てるその動作は、
儀式でもなければ、習慣でもない。
情報を読み取っているのである。
今日の気温。
今日の湿度。
塗り材の厚さ。
乾いていく速さ。
センサーなら、こうした数値を測定できる。
しかしセンサーは、
今日、この壁に何が必要なのかまでは教えてくれない。
水を少し足すべきなのか。
あと30分待つべきなのか。
それとも今日は湿気が多すぎるため、
別のやり方に変えるべきなのか。
その判断は、
職人の手のひらに宿っている。
20年間、来る日も来る日も壁に触れ続けてきた、
その経験の中に宿っている。
左官技術を身につけるには、10年以上の歳月を要する。一朝一夕には習得できないからこそ、後継者を育てることも難しい。しかし、一つのことを究め、その技によって人から信頼されたいと願う者にとって、左官職人ほどふさわしい仕事もない。
10年かけて、
ようやく入り口に立つのである。
そんな時代に、
興味深い変化が起きている。
若者たちが、現場へ向かい始めている。
ほかに選択肢がないからではない。
むしろ、その逆である。
建設業や製造業などの現場職に就く人のうち、5人に1人が事務職などのホワイトカラー職からの転職者だという。若者の中には、自分の仕事がAIに代替されることを懸念し、思い切って現場の仕事を選ぶ人も少なくない。
ホワイトカラー層の7割が「条件が合えば、現場職への転職を検討してもよい」と答えている。自分の仕事がAIに代替される可能性を強く意識している人ほど、現場の仕事を前向きな選択肢として捉える傾向がある。
コンサルティング会社から、寿司職人へ。
ITエンジニアから、タクシー運転手へ。
オフィスから、建設現場へ。
これは後退ではない。
むしろ、冷静な判断なのである。
機械がまだ入り込めない場所へ行くという選択だ。
25歳の若者が、
60歳の老左官の隣に立っている。
老職人は手のひらを壁に当て、
目を閉じている。
若者が尋ねる。
「機械で測ったほうが、正確なんじゃないですか?」
老職人は目を開けて、こう答える。
「機械が教えてくれるのは数字だ。
俺の手が教えてくれるのは、
今日のこの壁の機嫌だ」
今日の、この壁の機嫌。
AIは1千万枚の壁の写真を分析できる。
センサーは温度や湿度を正確に測定できる。
アルゴリズムは最適な施工方法を導き出すことができる。
しかし、どんなプログラムにも、
この壁が今日、
この光の中で、
この季節の中で、
何を必要としているのかを感じ取ることはできない。
なぜなら、
感知することは、計算することではないからだ。
感知とは、積み重ねである。
失敗したこと。
間違えたこと。
ある冬の朝、
塗り材が凍ってしまったこと。
そして、その日の温度を、
手が覚えていること。
その失敗も、
その冬も、
手が覚えているその温度も、
どんな機械にも、
ダウンロードすることはできない。
儒教の経典『中庸』には、こうある。
「誠者、物之終始。不誠無物。」
古人がいう「誠」とは、単に人に対して誠実であるということだけではない。
天地万物に対しても、敬意を抱くことである。
古人にとって、一面の壁は、単なる壁ではなかった。そこにも霊性があり、呼吸があり、命があると考えた。
土には土の性質がある。
木には木の性質がある。
石には石の性質がある。
漆喰にも漆喰の機嫌がある。
晴れの日、曇りの日。
寒さと暖かさ。
乾燥と湿気。
それらはすべて天地の気配に応じ、
自らの状態を変えていく。
だから左官職人が壁に手を当てるのは、
単に材料の状態を確認しているのではない。
むしろ、そっと問いかけているのである。
「今日の調子はどうだ。
もう準備はできたか」
職人は壁を待ち、壁に合わせる。
自分の都合や速さに従わせるのではなく、
その日の壁の呼吸に寄り添い、
壁とともに一面を仕上げていく。
この「誠」は、技術ではない。
万物にはそれぞれ固有の生命や性質があると信じる心であり、道具を慈しみ、天地万物を大切にする姿勢なのである。
だから、機械では測れないものがある。
身体が日々触れ合う中で、
少しずつ感じ取れるようになるもの。
そして、物を敬い、物を慈しもうとする心が、
少しずつ聴き取れるようになるものがある。
AIに、それが分かるだろうか。
分からない。
AIには身体がない。
手がない。
冬の朝、
凍りついた塗り材に触れた、
あの記憶がない。
世界中から人々が日本を訪れ、
一本の包丁を買う。
一つの器を買う。
一つの漆器を買う。
一丁の豆腐を買う。
安いからではない。
見た目が美しいからだけでもない。
その品物の中に、
「人」がいると感じるからである。
夜明け前のどこかで、
一双の手が、
真剣に、丁寧に、
その品物をつくった。
その感覚を、
機械は再現できない。
なぜなら、
機械には心がないからである。
しかし今、
時代は別の方向へ進んでいる。
大量生産。
効率。
AI。
自動化。
日本の建設業の就業者数は、1997年のピーク時の685万人から、2025年には約480万人まで減少した。そのうち約35%が55歳以上であり、今後10年間で100万人のベテラン職人が引退すると予想されている。
建設業だけではない。
漆器をつくる人が減った。
陶磁器をつくる人が減った。
手で壁を塗れる人が減った。
そして、
手で壁の「機嫌」を感じ取れる人は、
さらに少なくなった。
最後の一人の、
壁の機嫌を知る職人が、
鏝(こて)を置いたとき――
その知識は、
消える。
どこか別の場所に残るのではない。
消えてしまうのである。
なぜなら、その知識は、
一度も文字に書き残されたことがないからだ。
それは、人間の手の中にしか、
存在していない。
日本は、なぜ世界から尊敬されるのか。
GDPがあるからではない。
科学技術があるからではない。
アニメがあるからでもない。
日本には、
「職人魂」と呼ばれるものがあるからだ。
一つのことを極限まで究めようとする執念。
たくさんつくるために質を落とすくらいなら、
少なくても良いものだけをつくるという信念。
データで世界を分析するのではなく、
自らの手で世界を感じ取るという生き方。
これが、日本の根である。
これが、日本の魂である。
歴史は教えている。
一つの民族は、
土地を失うことがある。
富を失うことがある。
戦争に敗れることもある。
しかし、文化の根さえ残っていれば、
再び立ち上がることができる。
だが、
その文化の根までも失ってしまったら――
その民族は、
本当の意味で消えてしまう。
地図から消えるのではない。
歴史的な意味において、
消えてしまうのである。
職人がいなくなっても、
日本は日本であり続けられるのだろうか。
壁の声を聴く、
あの一双の手がなくなったとき、
日本には、
何が残るのだろうか。
これは、日本だけの問題ではない。
どの民族にも、
それぞれの「職人」がいる。
手を使い、
心を込め、
一生をかけて、
何かを守り続けてきた人たちがいる。
時代という激流が、
そうした人々を一人、また一人と押し流していくとき、
私たちは、
振り返ったことがあるだろうか。
考えたことがあるだろうか。
流されていく彼らが持ち去るものは、
一つの技術だけではない。
彼らが持ち去っていくのは、
一つの民族と、
その民族自身の「根」を結ぶ、
最後の一本の糸なのだ。
糸が切れても、
木はまだ立っている。
しかし、根を失った木は、
ひとたび風が吹けば、
倒れてしまう。
あの若者は、
最後には現場に残った。
誰かに強制されたわけではない。
ある日、
自分の手を、
塗ったばかりの壁に当ててみたからだ。
そこにある温もり。
かすかな湿り気。
そして、言葉では表すことのできない――
一面の壁との対話。
その瞬間、若者は理解した。
なぜ、あの老職人が目を閉じるのかを。
集中するためではない。
あの瞬間は、
目で見ることのほうが、
かえって邪魔になるからだ。
手だけが、
本当の声を聴くことができる。
もしかすると、
この若者こそが、
日本の希望なのかもしれない。
AIを使えるからではない。
半導体に詳しいからでもない。
彼が選んだのは、
自分の手で、
「聴く」ことだったからだ。
誰もが画面を見つめている時代に、
彼は目を閉じ、
手を壁に当てた。
すると、その壁が、
彼に語りかけたのである。