≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(8) 「裏切られた期待と開拓団での生活」

第二章 裏切られた期待と開拓団での生活

 私たちがバスから降りたとき、目に飛び込んできたのは、一面の荒れ果てた山と野原でした。3月の黒龍江省はまだとても寒く、地面もまだ凍っていました。大地は一面枯れた雑草に覆われ、山にも緑は全くなく、麓に新築のレンガの平屋が幾棟か並んでいるだけでした。

 当時の私は、この光景を目の当たりにして、自分の目を疑うほど強いショックを受けました。まるで夢の中にいるようで、私は心の中で眼前の現実を必死に否定しようとしました。「こんなはずがない、うそだ。ここは絶対に私たちが目指していた所なんかじゃない。お父さんは、羅津市よりもっとすばらしいって言っていた……」。

 しかし、耳には人々の話し声が聞こえました。これは夢ではありませんでした。私の心は一瞬にして何が何だかわからなくなりました。父を見ても母を見ても、表情はとても険しく、いつものやさしい笑顔が消えていました。両親も、ここが目指していた所ではないんじゃないかと疑っていたのかもしれません。私はすぐに、どうもとても恐ろしい事態になっているように感じました。祖母が当初予想していた「万が一」のことが現実になったようです。

 その時、開拓団の石井房次郎団長が、各家のお父さんと握手しながら、「皆さん、長い旅ご苦労様でした。新天地の開拓にようこそおいでくださいました。皆さんの家はすでに用意してあります。玄関に表札がありますので、どうぞ、中に入って休んでください」と声をかけました。

 間違ってなんかいませんでした。そこが正しく目的地だったのです。私たちの家は本部のすぐ隣で、道路のそばの一軒家の平屋でした。玄関の前には井戸がありました。

 家に入ったとき、私の不安はますます強くなりました。父が憧れていた中国の地はこのような荒れ果てた山間であるはずがありません。私は漠然とした不安に襲われ、ひたすら力なく両親の顔を見つめていました。父も母も、こんなはずじゃなかったと感じているようでした。

 父は、日本を出発する前に受けた説明と全然違う、とつぶやきました。両親は騙されたのではないかと思ったようです。母は小さな声で父と何か話していました。父のその時の心情が普段ととても違うのが、当時の私にも分かりました。父の性格は、本来とても明るく、どんなことに遭ってもいつも冗談を言うのが好きで、周りの人々を随分笑わせていました。父はそのように、ユーモアに溢れ、悩み知らずの人として有名でした。祖母もよく父のことを、「物事を難しく考えず、悩み知らず」と言っていました。だからこそ、そのときの父の様子を見て、私はますます不安になったのです。

 他の家のお母さんが、ここに来たのを後悔して泣き出しました。ご主人を責める奥さんもいました。当時、私はまだ幼かったので、大人の人たちの気持ちと悩みは理解できませんでした。しかし、眼前の現実と父の珍しい表情を目の当たりにして、私はわけもわからず、心配になってきました。

 その日の夜、父の親友の新井さんが家にやって来て、一晩中、父と小声で何か話していました。何を話していたのかはわかりませんが、母もそばに座って、黙って二人の話を聞いていました。どうも、三人は何か相談している様子でした。

 そのときの母の態度には驚きました。涙を流すこともなく、一言たりとも父を責めることもなく、反対に父を慰め、二人の男の人を励ましていたのです。私は突然、暴風雨の船上で母から聞かされたあの物語を思い出しました。母の当時の冷静で前向きな態度は、確かに家族の心を落ち着かせ、私の内心の不安を随分取り除いてくれました。

 父は気を取り直して、みんなに、もうここに来た以上、後悔してもしかたない。何とかして生きていかなければならない、と言いました。

(つづく)

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私たちは、羅津市を離れてからは、暴風雨に遭うこともなく、好天に恵まれ、さらに2日間船旅が続きました。
大人の人にとって「何とかして生きていく」ということが何を意味しているのか、8歳の私には分かりませんでしたが、私たちが中国の辺鄙な田舎に来ていることは確かでした。そして、「何とかして生きていく」という父の慰めのことばが、その後自分が一人で向き合わなければならない運命になるとは思いもしませんでした。
それからしばらく経って学校が始まり、私は毎日小道を通って山の麓にある学校に通うようになりました。 
私は次第にそこの生活に慣れました。入学して間もないある日のお昼、食事(昼ごはんは学校が先生と生徒のためにまとめて作ってくれる)が終わってグランドで縄跳び遊びをしていると、突然深緑色のトラックがやってきました。軍人のような若い人が何人か降りてきて、車から荷物を下ろし、総務室に運び始めました。多くの先生方も手伝っていました。
開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。
私たち一家6人の開拓団での生活は、とても簡素で非常に短いものでしたが、私の生涯において非常に特別な意味を持っていました。
第三章 嵐の訪れ:父との永遠の別れと苦難の逃避行 父との永遠の別れ 1945年8月、稲妻と雷が激しく交じり合う嵐の夜、風雨がガラス窓を強く叩き、大きい音を立てて響き渡っていました。
苦難の逃避行 父たちが行った後、学校では授業がなくなり、子供たちは外へ出ないようにと言われました。開拓団本部の若い男の人たちはみな前線に送り込まれ、残ったのは、団長と年配の男の人たち、それに女・子供だけでした。
そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに、一旦歩き出すと何も怖くなくなり、落ち着いて来ました。私は自分に、決して遅れてはならない、と言い聞かせながら、弟の手をしっかり握りました。