著者の母(写真・著者提供)

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(9)「裏切られた期待」

大人の人にとって「何とかして生きていく」ということが何を意味しているのか、8歳の私には分かりませんでしたが、私たちが中国の辺鄙な田舎に来ていることは確かでした。そして、「何とかして生きていく」という父の慰めのことばが、その後自分が一人で向き合わなければならない運命になるとは思いもしませんでした。

 しかし、当時は両親が健在で、私はそれほどに心配する必要もなく、その上、母の存在が私にとっては最大の保障でした。そのため、父の話を聞いて、私は随分落ち着きを取り戻しました。ただ、弟3人がぐっすりと眠りについた中、私はどうしたことか寝付けませんでした。思いもよらなかった突然の境遇に、幼い私は一気に成長したような気がしました。

 私は祖母と姉、そして、東京にいたころのことをあれこれ思い出しました。新潟港を離れた後の暴風雨、そして、朝鮮の羅津港に上陸したときに見かけた新鮮な光景と数日前旅順港で目にした日本人の住宅を思い出しました。そして、今、私たちが住んでいるこの粗末でぼろい新居のことを考えると、冬がやってきたら、どうするんだろうと不安になりました。私はそのとき、冬なんか早く来てほしくないと思い直したのです。

 そんなことを考えているうちに、私もいつの間にか眠りにつきました。目が覚めたときには、もうすでに夜が明けていて、外は雪が降っていました。外へ出てみると、とてもきれいで、屋根は真っ白な雪に覆われ、庭の雪は少し融けていました。遠くの山は日に当たっているところは雪が融けていましたが、日陰ではまだ白い雪が残っていました。

 家からそれほど遠くない山の麓に、細長い平屋が幾棟も並んでおり、氷の張った小川も見えました。団長が、「学校は近くにあるから、何日かしたら行けるぞ」と言っていたので、おそらくあれが学校で、私はこれから毎日そこへ通うことになるのだと思ったのですが、日本で祖母が心配していたことを思い出して、なんとも言えない気持ちになりました。

 母は朝食の用意をすると、私たちに顔を洗うよう言いました。母にこう言われて、私は本当にお腹が空いたと感じました。昨晩は、開拓団本部の人たちが各家におにぎりとお新香を用意してくれたのですが、私はそれを適当に口に入れただけで、お腹がいっぱいになったようなならなかったような、よく分かりませんでした。でもその朝は本当にお腹が空いており、すぐにでも母の作ってくれた料理を食べたくなりました。今回の旅で、随分長いこと母の料理を食べていないような気がしました。

 ここに着いたばかりだったので、粟とトウモロコシの粉とジャガイモだけの味噌汁しかありませんでした。それにしても、黄色い粟のご飯を食べたのは初めてでしたが、結構おいしく食べることができました。弟は食べながらぽろぽろ落とすので、母がおにぎりにしてくれました。そうすると、食べてもご飯粒が落ちることはありませんでした。

 新井おじさんは独身で、父はよく家へ食事に連れて来ました。おじさんはいつも母のことを頭が良くて手先が器用だと褒めていました。母が作ったおにぎりは、高粱にしろ、粟にしろ、日本のお寿司と同じように美味しかったのです。

 ここに着いて間もなく、父と新井おじさんは働き始めました。父は2頭の馬と馬車を買って、毎日新井おじさんと野良仕事に励んでいました。

 父にせよおじさんにせよ、東京では畑仕事をしたことがありませんでしたが、本部にいる農業指導員の指導によって、春の種まき作業をどうにか終えることができました。

(つづく)

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第二章 裏切られた期待と開拓団での生活  私たちがバスから降りたとき、目に飛び込んできたのは、一面の荒れ果てた山と野原でした。3月の黒龍江省はまだとても寒く、地面もまだ凍っていました。大地は一面枯れた雑草に覆われ、山にも緑は全くなく、麓に新築のレンガの平屋が幾棟か並んでいるだけでした。
それからしばらく経って学校が始まり、私は毎日小道を通って山の麓にある学校に通うようになりました。 
私は次第にそこの生活に慣れました。入学して間もないある日のお昼、食事(昼ごはんは学校が先生と生徒のためにまとめて作ってくれる)が終わってグランドで縄跳び遊びをしていると、突然深緑色のトラックがやってきました。軍人のような若い人が何人か降りてきて、車から荷物を下ろし、総務室に運び始めました。多くの先生方も手伝っていました。
開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。
私たち一家6人の開拓団での生活は、とても簡素で非常に短いものでしたが、私の生涯において非常に特別な意味を持っていました。
第三章 嵐の訪れ:父との永遠の別れと苦難の逃避行 父との永遠の別れ 1945年8月、稲妻と雷が激しく交じり合う嵐の夜、風雨がガラス窓を強く叩き、大きい音を立てて響き渡っていました。
苦難の逃避行 父たちが行った後、学校では授業がなくなり、子供たちは外へ出ないようにと言われました。開拓団本部の若い男の人たちはみな前線に送り込まれ、残ったのは、団長と年配の男の人たち、それに女・子供だけでした。
そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに、一旦歩き出すと何も怖くなくなり、落ち着いて来ました。私は自分に、決して遅れてはならない、と言い聞かせながら、弟の手をしっかり握りました。
私は左右の手で一人ずつ弟の手を引き、3人で横になって山を一気に下りて行きました。そこにはすでに何人か大隊の人が私たちを待っていました。後ろを振り返ってみると、隊列は今朝ほどにはかたまっておらず、人がバラバラと下りて来ており、まだ山の上まで来ていない人もいるようでした。