著者の母(写真・著者提供)

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(12) 「裏切られた期待」

開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。以前東京の家に住んでいたときは、祖母と姉がいましたが、いま母はお腹が日に日に大きくなり、赤ちゃんを産もうとしています。園子姉さんがいないため、私が長女の役目を果たし、母を手伝って弟たちの面倒を見なくてはなりません。お姉さんとしての責任感と自信が一気に強くなりました。

  しかし、私の心も複雑となり、母のことをすごく心配するようになりました。もし、東京へ帰る途中で赤ちゃんが産まれたらどうしようとか、途中でバス、列車、船を転々と乗り換えなくてはならない、船の上で出産すれば、ベッドも浴室もあるから、それが一番望ましいとか、いろいろと悩みました。今振り返ってみれば、私の心配通りになっていたほうが、むしろ我が家にとって最善の結果だったはずです。ただその時は、天が私に試練を与えるための暴風雨がすぐにもやってくること、そして私の如何なる心配も無用であることなどは、知る術もありませんでした。

 ある日曜日、私は母に、「母さんはいつ弟を生んでくれるの」と聞きました。私のこの突然の質問に、母は一瞬びっくりした様子でしたが、すぐに優しく「秋の収穫が終わった11月よ」と答えました。母は、「お正月前なのね。もし東京に戻ることができて、兄弟も一人増えれば、きっとおばあちゃんが喜ぶわね」という私のことばに微笑むと、畑に行って黙々と農作業を始めました。私はそのとき、長女としての自覚が芽生え、母の畑仕事を手伝わなくてはならないと思い、母の後を追って、一緒に野菜の苗を植え始めました。

 私は一つ一つ掘った穴に苗を入れる作業をしました。母にとっても、生まれて初めての農作業でした。母は農業訓練を数週間受け、指導員から苗の栽培法を教わっただけでした。ちょうどその時、指導員の盛田さんが我が家の野菜畑を通りかかり、実際にやって見せてくれました。母は非常に頭がよく、すぐに要領を掴みました。私は初めて農作業に参加しましたが、母の手助けをすることができました。私が苗を入れる籠を持ち、苗を穴に入れ、母が土をかぶせました。植え終わって振り返ってみると、苗は元気のない様子で頭を垂らしていました。母は、「農業指導員が言っていたんだけど、数日経てば元気になるそうよ。雨が降れば、すぐによくなるわ」と言いました。

偶然にもその日の夜、雨が降りました。

 

偶然にもその日の夜、雨が降りました。翌日私が学校に行くときもまだ降り続いていました。

 普段、私は雨の日が嫌いでした。ここの道路は東京と違って、雨が降ると靴に泥がいっぱい付いてしまいます。足を上げるのも大変で、時には靴が脱げてしまい、足が泥まみれになります。

 しかし、その日の雨は、タイミングがよかったので、私は感激していました。雨のおかげで母と一緒に植えたトマト、なすの苗はすぐに元気になるはずです。放課後、天気も晴れ、太陽も顔を出しました。私は直接家に帰らずに、野菜畑に駆けつけてみると、遠くから苗が整然と直立しているのが見えました。雑然としていたのがきれいな列をなしており、私はとても嬉しく感じました。初めての母のお手伝いが上手くいき、一本の苗も無駄にしなかったからです。すぐにでもこのことを母に伝えれば、母もきっと喜ぶはずだと思いました。

 野菜畑から立ち上がろうとしたとき、足が泥に深くのめり込んでいるのに気がつきました。ずいぶん苦労してようやく家にたどり着きました。母が私の泥足をみて、どこに行ったのかと聞いてきました。畑で昨日植えた苗を見てきたと言うと、母は、「雨の日や雨の直後は田んぼに入ってはいけない」と教えてくれました。それ以来、私は、農業の知識を少しずつ身につけ始め、放課後はいつも母の手伝いをし、野菜畑の仕事に参加するようにしました。

 間もなく、畑の苗が成長し、花も咲き始め、小さなキュウリが実り、ナスも形が整い、トマトは赤くなりました。その年の夏は、雨が特に多く、気温も高かったので、農作物の成長が非常によかったのです。開拓団の広大な畑の作物も収穫間近となっていました。

 私の3人の弟は普段本部の幼稚園に入園していました。そこの先生は2人しかいなくて、十数人の子供の面倒を見ています。一番上の弟「一」は翌年の春に小学校に入学する予定でした。母は、一には東京で教育を受けさせると言っていました。私と弟たちは、お正月に東京へ戻るのを楽しみにしていました。

(つづく)

 

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私は次第にそこの生活に慣れました。入学して間もないある日のお昼、食事(昼ごはんは学校が先生と生徒のためにまとめて作ってくれる)が終わってグランドで縄跳び遊びをしていると、突然深緑色のトラックがやってきました。軍人のような若い人が何人か降りてきて、車から荷物を下ろし、総務室に運び始めました。多くの先生方も手伝っていました。
私たち一家6人の開拓団での生活は、とても簡素で非常に短いものでしたが、私の生涯において非常に特別な意味を持っていました。
第三章 嵐の訪れ:父との永遠の別れと苦難の逃避行 父との永遠の別れ 1945年8月、稲妻と雷が激しく交じり合う嵐の夜、風雨がガラス窓を強く叩き、大きい音を立てて響き渡っていました。
苦難の逃避行 父たちが行った後、学校では授業がなくなり、子供たちは外へ出ないようにと言われました。開拓団本部の若い男の人たちはみな前線に送り込まれ、残ったのは、団長と年配の男の人たち、それに女・子供だけでした。
そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに、一旦歩き出すと何も怖くなくなり、落ち着いて来ました。私は自分に、決して遅れてはならない、と言い聞かせながら、弟の手をしっかり握りました。
私は左右の手で一人ずつ弟の手を引き、3人で横になって山を一気に下りて行きました。そこにはすでに何人か大隊の人が私たちを待っていました。後ろを振り返ってみると、隊列は今朝ほどにはかたまっておらず、人がバラバラと下りて来ており、まだ山の上まで来ていない人もいるようでした。
日が沈み、周りは暗くなり始めましたが、前方にはまだ何の建物も見えず、至るところ林でした。大隊を率いる人が、今晩早いうちに目的地にたどり着くために、道を急ぐよう、皆を励ました。