≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(13) 「裏切られた期待」

私たち一家6人の開拓団での生活は、とても簡素で非常に短いものでしたが、私の生涯において非常に特別な意味を持っていました。

 開拓団のあたり一面は荒れた丘と禿山で、遊び場はほとんどありませんでした。唯一子供たちの興味を引いたのは、学校の近くにある大きな石です。

 この大きな石は、二つの巨大な石がくぼ地に落ちて出来たものです。下の石は大きくて平らで、小さな空き地のようで、その上にタマゴ状の石が乗っていました。人々は、この石を「タマゴ石」と名づけ、そのあたりを「タマゴ石溝」と呼んでいました。

 当時、私はよく、同級生と一緒に下の平たい石に乗って遊びました。その石はとても大きくて、20人あまりの子供が手をつないでも一周できないほどの大きさでした。

 噂では、この大きな石は天から落ちてきたものだといわれていますが、いつ落ちてきたかは、誰も知りませんでした。

 50年後の1995年8月、私は、当時開拓団本部で一緒だった同級生の沖山進さんと再び、「タマゴ石溝」を訪れ、ここで亡くなった開拓団の母親や子供たちの冥福を祈りました。

 私は再びこの大きな石の前に立つと、当時のことが眼前に浮かんできました。当時の開拓団本部の整然と並んだ家はもはや見当たらず、山すその小学校も無くなり、全て畑や水田となっていました。しかし、歴史と時勢が目まぐるしく変転し、半世紀が経った今も、この石は依然静かに元の場所にどっしりと構え、私の帰りを待っていたかのようでした。そして、日本の母親と子供たちの命を代償にしたあの歴史を決して風化させてはならない、と訴えているようでした。

 現地の農民の話では、数年前に中国国家観光局が専門家を派遣して、数台の大型クレーン車でこの大きな石を運び去ろうとしましたが、石はまるで大仏のようにびくともしませんでした。誰も動かすことができないその大きな石は、永遠にこの谷あいに横たわって見守っているのです。

 私は当時そこに生えていた草木の一本一本を忘れることができませんでした。家の前にあった井戸を何とかして探そうと、戦前のこのあたりの様子を覚えているお年寄りを捜し求めました。上手い具合に、70過ぎの2人のおじいさんが私たちを麦畑に案内してくれ、「ここは当時日本の開拓団本部があった所で、向こうの麦畑は団員の住宅地。井戸はあそこにあった」と教えてくれました。彼らの指差す方を見ると、井戸はすでに埋められ、家の痕跡も全くありませんでした。

 2人のおじいさんは、当時、日本軍が敗戦し投降したときの状況を語ってくれました。私は一瞬にして過去にタイムスリップしたかのように、当時の学校、開拓団本部、私たち家族が住んでいた家など、半世紀前の出来事が一つ一つ、映画のシーンのように、再び眼前に浮かんできました。

(つづく)

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開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。
第三章 嵐の訪れ:父との永遠の別れと苦難の逃避行 父との永遠の別れ 1945年8月、稲妻と雷が激しく交じり合う嵐の夜、風雨がガラス窓を強く叩き、大きい音を立てて響き渡っていました。
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そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに、一旦歩き出すと何も怖くなくなり、落ち着いて来ました。私は自分に、決して遅れてはならない、と言い聞かせながら、弟の手をしっかり握りました。
私は左右の手で一人ずつ弟の手を引き、3人で横になって山を一気に下りて行きました。そこにはすでに何人か大隊の人が私たちを待っていました。後ろを振り返ってみると、隊列は今朝ほどにはかたまっておらず、人がバラバラと下りて来ており、まだ山の上まで来ていない人もいるようでした。
日が沈み、周りは暗くなり始めましたが、前方にはまだ何の建物も見えず、至るところ林でした。大隊を率いる人が、今晩早いうちに目的地にたどり着くために、道を急ぐよう、皆を励ました。
その日の夜、馬蓮河屯に着きました。そこはとても大きな村で、西には牡丹江から図們(トゥーメン)に行く直通汽車が走っており、南には大きな河・馬蓮河があり、鉄道の東側、村落の外にはまた小さな川があり、村の人々は皆その川で洗濯し、子供たちはそこで水遊びをして遊んでいました。