≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(49)「気弱になった養父」

その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。養母は多額の金銭を得ましたが、当時の私はぜんぜん知らないことでした。

 当時の私はまだ12歳で、トンヤンシーの意味も良く分からず、趙家に行くことにしたのは、そうすれば養母が学校に行かせてくれると言ったからでした。「学校に行って勉強できる」というのは、私にはとても魅力的でした。

 養母が私の将来に対して、このような破滅的な行為をしたことは、私には思いも寄らず、端から考えもしていないことでした。それゆえ、養母が話したことには疑いも持たず、ただ二つ返事で承諾しました。

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身売りの話 養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。
その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられましたが、労働力が足りないので、養父に手伝いに来てほしいというのだそうです。
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