≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(63)

このとき、私は急に弟の趙全有の家を思い出しました。私は養父に、河南の元々私たちが住んでいた趙源おじいさんの家へ行ったらどうだろうかと聞いてみました。養父は聞くなり、「それはいい」と言ってくれました。

 養父は、今晩のうちに沙蘭鎮に行き、趙源おじいさんの家に駆け込んだらいいと言いました。さらに、「先方さえよければ、そのままそこにいればいい。趙おばあさんがお前のことを嫌わなければ、そのまま養女になってもいい。お前の弟はそこでとてもかわいがってもらっているんだから、姉と弟が一緒に暮らせるようになれば、もっといいじゃないか」と言いました。

 養父はさらに、「もう二度と私たちの家に帰ってこないほうがいい。お前のお母さんは不条理で愚かな人で、誰にも手がつけられない。お前を何としても趙玉恒に嫁がせようとしているが、お前はまだ小さいんだから、絶対に“トンヤンシー”なんかにはさせられない。そんなことになったら、お前の一生は台無しになってしまう」と言いました。

 私は突然、言い知れぬ悲しさを覚えました。もう二度と養父には会えないような気がして、養父と別れるのが辛く、思わず養父の胸に飛び込んで泣いてしまいました。養父もまた泣いていました。

 その時、眼前にある情景が思い浮かびました。実の父と別れたあの嵐の夜です。あの時も荒れ狂う嵐の中、私は父の懐に飛び込み、父とお別れをしたのでした。まるで、歴史が繰り返されたかのようでした。

 養父は悲しそうに言いました。「今、私はお前に何もしてやれないどころか、お前に迷惑をかけてしまった。私は警察官だったので、今は出身が悪いということになってしまい、どこへも行くことができず、ただ蘭家屯で畑仕事をやるだけだ。もう私のことを心配しなくてもいい。私はもういい年で、先は長くない。お前はまだ若く、将来もあるのだから、早く家を出たほうがいい。この数年、お前にはこの家で苦労をさせてしまった。お前は聡明で礼儀正しいよい子だ。お前は将来、きっとうまくいく。大きくなったら、自分に見会った人を選んで結婚し、家庭を築きなさい。私はお前のために何もしてあげられない。もし困ったことがあったら、孫おじいさんを訪ねなさい。何か助けてくれるかもしれない。天の神様がお前を加護してくれるように…」。

 養父の話は心温まるものでしたが、同時にずっしりと私の心に響きました。実の父の最後のことばと全く同じだったのです。私はまるで実の父に会ったかのような感動を覚え、打ち震えました。父が雨の夜、招集に応じて出かける際、最後に言ったことばが、「神様のご加護がありますように」だったのです。

 私は、再びそのように家族と別れるという感情に抗する術がありませんでした。私は本当に、こんなにも善良な養父を失うのを辛く思いました。

 養父はさらに続けました。「よく覚えておきなさい。絶対に蘭家後屯に帰ってきてはいけないよ。絶対に戻って来てはいけない」と、まるで私に命令しているかのようでした。そう言い終わると、養父は踵を返して帰っていきました。

 そのとき、突然雷光が煌き、雷鳴が轟き、天地が打ち震え、ぞっとするような恐ろしさを覚えました。その瞬間、「天意逆らい難し」という字が、私の脳裏に浮かびました。

 この嵐の夜に養父と別れ、それが、実の父と別れた時と同じく、最後の別れになろうとは、思いもよりませんでした。

 (続く)

関連記事
私は養母が追いかけて来るんじゃないかと心配で、足を緩めることはせず、できるだけ速く走ろうとするのですが、走ればまた転んでしまい、全身泥だらけになりました。
独りで身の拠り所を探す 養父は行ってしまい、私は一人残され、自分で沙蘭屯に入らなければなりませんでした。
風は次第に弱くなり、大雨もまた小ぶりになって、暴風雨が去ろうとしていました。夜が明けると、私は学校を離れ、川の南にある趙おばさんの家へ向かいました。
趙おばさんは、当時たしかに私を娘にしたいと考えており、何度も趙に改姓するよう言いました。ただ、私は趙になんか改姓したくありませんでした。
大きな劫難がやっと過ぎ去り、私はまた絶望の中で再び謝家に戻りました。心を落ち着け身を寄せることのできるところが見つかり、流浪の日々で疲れた心
合格通知書が区政府に届き、区の教育担当助手が鐘家に報告に来てくれました。私は沙蘭地区の受験生の中でトップ合格でした。
第五章 中学の時、孫おじさんと唯一の弟を亡くす「出自が道徳規準に勝る」という困惑に初めて直面する 1954年、寧安一中がちょうど建設されました。
当時、私の前の席に宮崇霊という女の子が座っていました。彼女は勉強が遅れており、特に数学が良くありませんでした。
中学に入って間もなくして、私もこの「共産主義青年団」に入りたくなりましたが、自分が日本人の子供で、劉家は共産党によって「富農」とみなされ、養父もまた日本統治下の満州政府で警察官をやっていたこともあって、いろいろと思い悩みました。