≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(85)
私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。この年、中等専門学校は、牡丹江師範専門学校が2クラス学生を募集した以外は、一律に募集せず、高校も2クラスのみが募集しただけでした。
この年、寧安一中は、高校クラスを2クラス募集しましたが、寧安一中だけでなく、寧安二中、さらには海林県、穆陵県、八面通などの中学からも受験に参加することになり、合格の割合はとても小さくなっていました。そのため、私たちはかなり緊張して、みんな努力して精を出して授業に向かい、何とかして高校に合格しようと準備していました。
夏休み前の試験の頃になると、私たちのような卒業を控えたクラスの学生は、朝一緒に集合して登校する必要もなく、自分で先に学校に行くことができました。当時、学友たちはみんな、早くに起きて、学校にやってくると朝の自習をしました。高校に進学するために、みんなは勉強を主要な任務としていました。
関連記事
はじめに: もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことはできなかったでしょう。
私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。
寧安一中の時に、孟先生以外で私の面倒をいろいろと見てくれたのは校長の王建先生でした。
文化大革命の間、王建校長はすでに異動していて、寧安一中を離れていました。
2004年に台湾の益群書店より『医山夜話』が出版された。これは、漢方医が患者と共にどのようにして多くの不思議な病を治したかを綴った実話集である。病気と聞くと、人々はよく病院での診断、治療、薬などを思い浮かべるが、人の心、道徳、正念、善行などが病と深く関係していると考える人は多くないだろう。
「21世紀は中国の世紀だ」と中国人は気負う。文明史的な視点から見れば、このことばは自惚れの嫌いがあっても、必ずしも過言ではないかもしれない。将来、歴史的事実として証明されるであろうが、中国の台頭およびその影響力の増強は人類文明史の必然のステップであり、歴史の発展の大趨勢である。