【党文化の解体】第5章(7)

【大紀元日本8月26日】

2.「両親である父母といえども、党ほど親しくはない」

2)「母たる党」の心情を教え込む

「民謡を歌って、党に聞かせよう、私は党を母に喩え、母は私の身を授け、党の光輝が我が心を照らし」

「母よ母よ、親愛なる母よ、貴女は甘い乳で私を育て……党よ党よ、親愛なる党よ、あなたは母の如く私を培い、祖国を愛することや文化を勉強することを教えてくれて……」

「党よ、親愛なる母よ、共産党がなければ新中国はなし、党中央の周囲に緊密団結せよ…共産党による日々の洗脳」

この二曲は、今日の中国人にとって大変聞き慣れている曲だ。中共はなぜこの種の擬人的手法を持ってその宣伝に熱中するのだろうか。

何故ならば、母親というものは、神聖なる愛の感情に満ちる称呼であるからだ。母親は私たちの命を授け、そして私たちを育ててくれて、私たちに対して恩恵をもっている人だからだ。母親は私たちに愛情を込めている。若いときには、母親に頼り、成人後、母親に対し親孝行を奉り、母親を扶養する。これは人間社会においての不変な真理である。中国の伝統社会は孝道を重んじ、例えこれ上にない権力者である帝王将相であっても、自分の母親に対しては非常に尊敬している。

共産党はこの種の真理を利用し、自己を母親に装って、一般の中国人の信頼を騙し取り、それを順服、供奉させる。何十年の宣伝の末、多くの人は本当に共産党を自分の家族と看做した。共産党が悪事を起こしたら、人々は「母たる党」の初心は悪くなった、やる方法が間違えた、他人に利用されたと信じがちである。とにかく、「党」は間違っていない、「党」が間違っても許せるべきである。

今一つ「母たる党」の心情と関連する観念がある。それは「家の恥を外に出さぬ」という観念である。もし誰かが共産党が民衆に対して行った悪事を暴露したら、特に国際社会に暴露したら、これは「党と政府」のイメージを破壊する行為だと決めつけ、所謂「愛国人員」たちはまるで自分のことが暴露されたかのようになり、言論・文章で容赦なく厳しく批判を加える。

共産党は我々の母でないことをさておいて、仮にそれが母であるとすれば、もし母が包丁で我が子に向かうであれば、隣人はこれを直ちに阻止すべきだけでなく、通報すべきであろう。こうしてみれば、仮に百歩譲って言っても、悪心を持たずに悪事をしたとしても、人々はそれを暴露すべきであり、強硬たる世論で圧力をかけ、更なる悪事の発生を阻止すべきである。

もう一つ、今頃になって、より多くの歴史資料や内幕の暴露により、我々がすでに知っているのは、共産党の殺人、腐敗、欺瞞と中国の一般大衆に対する残酷な迫害は、共産党が公に宣伝している理論原則と一貫にして行われてきた政策そのものである。整風運動、反右派闘争、文化大革命、法輪功への迫害、これらは決して共産党の(うっかりした)「失敗」ではなく、その逆、厳密に計画された、系統的に実施された統制権力の一部分である。こうしてみれば、中共は決して父母よりも親しくなる親人ではなく、「善人」「親人」の衣装を被っている強盗とごろつきである。

3)悪人を父と看做す心理的原因

80年代初期ごろ、中国でかなり人気映画―「牧馬人」、この映画の主人公許霊均さんは右派分子と決めつけられ、内モンゴルへ二十年の流刑を受けた。早時期にアメリカへ移民していた父が中国へ帰って、彼にアメリカへの移民生活を誘ったが、彼に婉曲に拒否されたという。その理由は:自身と何千万単位の中国人の苦難は、「一つの歴史的誤解」であり、「母がわが子を誤って譴責してしつけた」のである。子供は自分の母を恨むことはない。なぜならば、母はいつも我が子を愛し、立派になることを期待し、ときにはその方法が間違ったとしても。

許霊均さんのこの考え方は中国の社会においては大変普遍的性格を持っている考え方である。「母は子供を殴ったり」「母は子供を誤解したり」は七十年代末から八十年代にかけて中国の文芸作品の中でよく登場する比喩的なの表現となっている。同時に、この考え方は多くの中共の暦次の政治運動の中から生き残った知識人と党員幹部たちの心理である。我々はこの考え方の本来の感情的真実さを疑うつもりはない。ここで分析したいのは、これらの共産党に度重なる翻弄され、残酷な弾圧を受け、刑務所や強制労働収容所に収容され、農村、辺縁地域に流刑を受け、自分たちの人生のもっとも素晴らしい青春時代を無駄に過ごした人たち、中には共産党に逼迫され、妻子と生き別れ、一家離散してしまうような人も少なくない。一体これらの被害者は何故中共の虚偽たる「懺悔」をこんなに容易に受け入れるのだろうか。

中共は「父母といえども、党ほど親しくはない」を宣伝するのは、人々を最終的に共産党を信頼し、「父母より親しい」共産党についていくことを最終的目的としている。しかし、孝道(親孝行)を推賞する中国人はいつもむやみに他人を父母と看做すことを最大の恥辱であると思っている。「悪人を父と看做す(敵に寝返る)」は人を罵るときの最も重い表現の一つとなる。しかし、中共が統制下における中国人はなぜ八十歳になる中共を自分たちの五千年の中華民族の母と看做してしまったのだろうか。この背後にある心理的原因は何か。ここでは重点的に三点の主要原因について、すなわち、一つの原因は中共による騙し宣伝と関係があり、残りの二つの原因は、騙された者の心理的要素と関係がある。

(1)真・偽二つの共産党

共産党は一貫して「道徳」という旗を大げさに振舞う。しかし共産党によって作り出された「道徳」的スローガンの終局的の目標は中共の完全な統制に役立たなければならないのである。例えば、「全心全儀に人民のために服務する」とは党が定められた「人民」のためにしか服務できないし、党によって定められた「敵人」に対しては秋風が落ち葉を吹く勢いのように残酷無情でなければならない。「大公無私」とは自分の心も党に捧げることだ。「好模範雷峰に学べ」の重点的内容とは彼の鮮明たる階級立場と錆びないネジのように党に対する忠誠たる心を学ぶことだ。「五講四美三熱愛(八十年代初期ごろ提唱した行動向上運動)」の中には「共産党を愛し、社会主義を愛する」は欠かせない。「心霊美(四美の一つ、綺麗な心)」は必ず共産党が指導する社会主義の下でなければならない。「精神的文明」とはマルクス主義思想をもって思想文化と世論陣地を占領することだ。「徳を持って国を治める」とはマルクス・レーニン主義、毛沢東思想、_deng_小平理論が「徳」の最高境地と看做すことだ。「和諧社会(調和の取れた社会)」が強調するのは党との一致を保持する「社会主義和諧社会」であり、党に喜ばれる人との和諧である。「八栄八恥(現代中国で提唱された文明的な国家建設を樹立するための道徳紀律の通称。正式名は《社会主義栄辱観》と呼ぶ)」とは党の好き嫌いを基準に決められる「栄辱」である。中共による道徳運動は共産党のために服務することが「道徳」の最高境地としているから故に、真の道徳水準の向上のためにはちっとも役立たないものである。これは単なる一種の運動で一時しのぎに過ぎないである。逆にこれは中国の社会的道徳の日増しの低下をもたらし、道徳危機は今日の中国の公認される社会危機となっている。しかし、客観的には、これらの所謂「道徳運動」は所詮「道徳」という衣を装って民衆を迷惑することができ、同時に、中共は一貫して建政後の歴史上において犯されたすべての過ちを一部の少数身代わり者(スケープゴート)に帰結させる。喉舌たる宣伝は更に中共を「外侮を抵抗し中華を振興させる」英雄の化身と宣伝する。このように長期に亘り、民衆は歴史上においてはどんなに中共による苦難を蒙ったとしても、心の中には一つの偽の「共産党」を樹立する。この偽りの姿は共産党の「本質」と「主流」であると思い込み、従って、自分が莫大の傷害や悔しい思いがあっても、善意を持って共産党を推し量り、「党」の出発点は悪くなかったと思ってしまうのである。

(2)騙されたことを認めようとしない

一般的に騙された人には、往々にして自分が騙されたことを認めようとしない傾向がある。何故ならば、騙されたことを認めれば、騙された当時の自分が幼稚、軽信、無経験、如才がないなどのことを認めることとなるからである。多くの青年はかつて救国救民の理想を持って、中共の宣伝に軽信してしまい、中共は本当に「一心に民族のため」であると信じてしまい、そのため、共産党へ入党したり、中共の同行者となったり、中共に対して一種の同情と賞賛の態度を持つ。中共の「事業」の中で、彼らは大変な心血を費やし、多くの感情を注いだ。そして、彼らは自分たちの純粋たる理想が中共により無情に翻弄されたと明らかにする時がやって来る。中共内部の排斥、墜落は歴史上の如何なる「搾取階級」政権よりも酷いものであり、中共政権が人民と国家にもたらす災難は歴史上において如何なる外敵による侵入によりもたらした災難をも超えるものである。このときは、これら騙された人たちは、本来ならば自己反省し、自己の認識上の誤りや人格上の弱点を反省し、なぜ中共に利用され、中華を禍乱する道具と使われたかを反省すべきである。そして、行動に移り、(中共の悪行)暴露し、抑制し、少なくとも中共から離脱し、悪人の手先となり悪事を働くことをやめるべきではないだろうか。

しかし、短所を保護、面子を重んじ、強烈な自己執着、これらの心理的弱点は彼らの理性的な選択の道の妨げとなった。彼らの潜在的意思の中で、共産党を否定してしまえばまるで自分の理想への追求をも否定してしまうという思いがあるがしかし、自分たち当初は満腔の熱意と良好な願望を持って「革命参加」したのだ。自己の理想的追求に対する否定的な結論を出さないためには、故意にか知らずにか共産党の罪悪な行いに対して見て見ない振りあるいは(悪事の影響を)刻意に小さくする。しかし彼らは思いにもよらないのは彼らの動機と(そうした動きによってもたらした)効果は往々にして逆であること。更に重要なのは、共産党員個人の動機は中共の全体的動機とまったく別のことであり、党員の個人的行為も中共の全体的行為とも異なるものである。後者こそ中共という組織の性質を判断する根拠である。

我々はここで誰かを責めるつもりはない。古今中外の邪悪を集大成した中共という組織は、良い話を説き尽き、悪事を尽くし、その邪悪と偽善の程度は人類の経験と想像を絶するものである。共産党が中国で樹立されたときは、正しく中国の国力が谷に陥って、内憂外患に逼迫された危機の時であり、そういう状況の下で冷静に思考し、理性的な判断を下すのは至難の業である。何十年後の今日、人性の半分乃至より長い時間で騙された人たちには、初めて中共の本来面目を理解する機会があって、これほど巨大な心理的落差を適応し、自己の生涯と事業を徹底的に反省することは、特に尋常を超える誠実さと巨大な道徳的勇気が必要であろう。

(続く)