【党文化の解体】第7章(3)

【大紀元日本5月15日】

1.中国の伝統皇暦を「旧暦」もしくは「陰暦」と称し、中国新年を「春節」と称する

2)「春節」と称される新年

年越しは華人社会の最も大切な伝統行事である。『説文解字』に「年」の意味を「五穀の成熟」と解釈している。古人は豊作の後、神の加護に感謝し、さらなる神の加護と来年の天候の順調を祈願して祭祀儀式を行った。

中国の伝統的な新年は農歴の十二月八日から始まり翌年の正月十五日に終わる。「十二月八日」は釈迦牟尼が悟りを開いた成道の日であり、民間でも寺院でもこの日に五穀粥を食べて、来年の五穀豊穣と家畜の安泰を祈る。

続いては農歴十二月二十三日、つまり「小年」の日となって、この日は灶王爺(かまどの神様)が天に昇る日である。かまどの神様が一年来、一家の一挙一動を見て、師走二十三日に天に昇って報告する、と中国の民間ではそう思われている。除夜にまた新しいかまどの神様の画像を壁に貼って、このような活動は中国人が持つ「頭の三尺上に神霊がいる」の思想の表れである。かまどの神様の監督を信じるため、人々は自分の行為をある程度制約したりするのは当然である。

かまどの神様(イラスト=大紀元)

農歴の十二月三十日は「除夜」とも言って、「神と先祖を祭る」日で、新年祝賀のクライマックスを迎える。「天地の机」を置く、門を守る神の画像を貼る、福の神・富の神・地位の神・喜びの神・太歳の神を迎える、かまどの神様の画像を取り寄せる、春聯を貼る、爆竹を鳴らすなどはみな中国人の神を尊ぶ伝統に由来する。「天地の机」とは新年の際に一時的に供え物を置く机である。「春聯」とはもともと桃の木で作られた牌で(中国では鬼が桃の木を恐れる伝説がある)、五代に蜀の国王は桃の木に「新年納余慶、嘉節号長春」の記念文句を書いたきっかけで、中国人ははじめて春聯を使うようになった。

先祖を祭ることも新年を祝う重要な一環で、正面ホールに先祖の位牌を順次に並べて、供え物を陳列し、それから家族らは長幼の順序によって線香を立てて叩頭する。『論語』に「終わりを慎み遠きを偲べば、民の徳厚きに帰す(親の喪に礼儀を尽くし、先祖の祭りに誠意をこめる)」があったように、先祖を祭ることは孝行だけでなく、古代の道徳と伝統を継承することにもなる。

一九四九年九月二十七日、中国共産党は「正月一日」の呼称を「春節」に変えた。これは中国共産党が伝統文化を批判して、無神論で取って代わる前奏である。これによって、この日は「春」を祝う普通の日になってしまって、伝統文化の中の新年を祝って神様と先祖を尊ぶ内包が抹消された。

それ以降、新年を祝う時のめでたい言葉は「今年北京に行って、毛沢東主席に会えるように祈る」、「革命の精神が代々受け継ぐ」などの政治的な言葉に替わり、春聯も「奴隷から主人の地位に登ったことを共産党に感謝、幸せを手に入れたことを毛沢東主席に感謝」に替わり、「神様と先祖を祭る」ことも「苦しかった過去を思い出し、現在の幸せをかみしめる」に替わった。また、政治内容の映画を見ること、親睦会と「団体祝賀」、「春節に迷信をせずに、みんなは舞台に上がって演目を演じる」ことが提唱された。貼られる年画も昔の神様を尊ぶ内容から、「大躍進」、「人民公社が良い」、「春節に毛沢東の三編の著作を学ぶ」、「家族全員揃って官報を読む」ものに変わった。

中国共産党の官報は、一般庶民の年越しをこのように報道した。一家が団らんして毛沢東思想の勉強会を行う、除夜に「昔の苦難を思い出すためのご飯」を食べると決意する――「この『除夜のごちそう』は階級闘争のための教育なので、食べたら永遠に階級闘争を忘れずに、永遠に共産党とともに革命を行う」、家庭内で批判会を開いて、あるいは親戚と友人と交流して「文化大革命の情勢」を話す。中国の伝統祝日はこのように、中国共産党が民衆を洗脳し、党文化を注入する政治教育になった。

文化大革命が終わった後、伝統の祝賀方法はある程度回復したが、三十年間の破壊を経て、現在の中国では完全に伝統を回復させることはとても難しくなった。中国中央テレビ局主催の「春節祝賀パーティー」は二十年近く続けられてきて、中国人の「新しい民俗」になったと吹聴されているが、演目には中国共産党を褒めるものばかりで、イデオロギーと関係があるテーマが終始貫いて、ますます下品になってきた。千百年以来の中国人が新年に託した精神面の追求と人生に対する感慨は、中国共産党によって完全に破壊された。

(続く)