2012年、記者会見に臨む安倍首相と野田元首相(Photo credit should read TORU YAMANAKA/AFP via Getty Images)

「武士道こそ政治家のもつべき矜持」野田佳彦氏の追悼演説が示したもの

日本では、特筆すべき功績を残した政治家が亡くなった場合、対立する党派の政治家が追悼演説をするという良き伝統がある。

10月26日、日本の衆議院本会議場で、立憲民主党野田佳彦氏による故・安倍晋三元首相への追悼演説が行われた。

野田氏は、立憲民主党の前身である旧・民主党時代に首相を務め、またその幕引きもした。野田氏が自らバトンを渡した相手が安倍氏であったことは言うまでもないが、その安倍氏が後日、卑劣な凶弾に倒れるなど予想もしなかったことであろう。

「安倍さん。あなたは、いつの時も、手強い論敵でした。いや、私にとっては、仇のような政敵でした」。そう語っているように、昔も今も、野田氏にとって安倍氏は政敵である。政治家を引退しない限り、たとえ安倍氏が故人になってもその関係は変わらない。

したがって、自民党総裁であった安倍氏の功績を野党として称賛することはできないわけだが、野田氏がおこなった追悼演説は、もはや与野党の壁を越え、故人に対する野田氏の誠実な人柄がよくあらわれたものとして、多くの国民に共感されたと言ってよい。

多くの人が共感した理由は何か。それはおそらく、野田佳彦という政治家が示した「武士道」にあったかと思われる。

礼節ある態度と、聞きやすく丁寧な言葉づかい。自身の過去の失言を告白して謝罪する、いさぎよさ。野田氏が示した故人への敬意は、その人物を失った大きな寂寞とともに、改めて日本国民の共感を呼んだのである。

 

「勝ちっぱなしはないでしょう、安倍さん」

今はもう、近世以前の武士の世ではない。しかし、日本人の精神的規範である「武士道」がわずかでも残っているとするならば、まさに現代の政治家こそが、その実践者であり体現者であるべきではないか。

武士道とは、敵に敬意を表しながら正々堂々とたたかう戦士であるとともに、自分に過ちがあれば切腹するという、究極的な責任感に他ならない。ゆえに武士道では、卑怯なふるまいを最も恥ずべきことと戒めている。

野田氏にそこまでの意図はなかったかもしれないが、野田氏が語った追悼の言葉は、自分自身と、他の議員にも当てはまる「政治家の覚悟」を述べたものであった。もちろん野田氏自身も、首相の重責を担ったものとして「歴史の審判」に委ねられることは百も承知である。

テロや暴力には絶対に屈せず、正々堂々、言論をもって戦う。国民に対して、まっすぐに語りかける。

そして、まさに安倍氏が身をもって示したように、挫折から謙虚に学び「諦めず、再チャレンジする」ことによって必ず復活する。そうした要点を追悼の辞のなかに入れた野田氏は、万感の思いを込めて次の言葉をいう。

「勝ちっぱなしはないでしょう、安倍さん」。

安倍さん、あなたは日本国にとって必要な人でしたよ。野党の立場である野田氏は、自身の本心を、上記のように換言して表現した。

「ひとたび兜を脱ぐと、心優しい気遣いの人でもありました」。

戦場を離れて兜を脱げば、荒武者も優しい人格になる、と野田氏は語った。安倍晋三さんは、本当にそういう人だったのだろう。

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