劉邦と項羽の肖像画、「晩笑堂竹荘畫傳」より。 (パブリック ドメイン/大紀元製図)

韓信――兵仙(4)なぜ劉邦は項羽を倒せたのか? 韓信の戦略は「隆中対談」の戦略に匹敵する【千古英雄伝】

(続き)

楚漢が覇権を争う前、項羽は40万の兵を持っているのに対して、劉邦はわずか3万の兵と馬で項羽の領地に赴きました。経歴的には、項羽は楚国の貴族であり、代々将軍として名声が高かったのに対し、劉邦はただの小さな亭主にすぎません。このような強力な敵を前に劉邦は、どのようにして弱者が強者を打ち破り、天下を統一することができたのでしょうか?

その答えは、韓信が将軍として登壇した日にありました。劉邦は韓信の才能と学識を知りませんでしたが、蕭何の度重なる推薦の結果、韓信を優遇しました。しかし、やはり劉邦は謎が解けず、直接韓信に尋ねます。「蕭は、将軍を何度も我に推薦し、言及しているが、将軍はどのような戦略を持っているというのだ?」。

▶ 続きを読む
関連記事
諸葛孔明の十の名言を身につければ一生受益し、自然と本領発揮して成し遂げることができるでしょう。
最高の贈り物は、友から来るのでしょうか? それとも敵から来るのでしょうか? 3日で10万本の矢が必要となった天才軍師は、最も便宜的な解決策を見出しました。敵の弓や矢筒から放たれた矢を利用しようということです。
連合軍が速やかに斉を攻め落とし、燕軍を斉の各地に配置し、国民を安心させることによって民心を得られ、斉を征服できると楽毅は考えていた。しかし斉の将軍・田単は反間の計を用い、「楽毅は6ヶ月で七十余りの城を落とせたが、なぜ3年かけても即墨と莒を落とせないのか? その理由は楽毅が自ら斉王になろうと企んでいるからだ」と、流言を流した。
秦軍の主力を打ち破った項羽は「諸侯上将軍」となりましたが、秦の首都である咸陽を最初に奪ったのは項羽ではなく、劉邦でした。
劉邦を亡き者とし、禍根を断つ絶好の機会をみすみす逃した項羽に范増は「ああ、豎子(青二才)はともに謀るに足らない。項羽の天下を奪う者はかならず沛公(劉邦)だ。一族はそのうち彼の虜になろう!」と嘆きました。