まるで彼女に邂逅した気分で、幾度かその作品のある喫茶店に通ったものです。(Mushiy / PIXTA)

「舟越道子さん」【私の思い出日記】

私は、小学生の頃、祖母が購読していた雑誌「婦人之友」(自由学園創設者の羽仁説子創刊)が毎月届くのが楽しみで、そこで紹介されている文化人やその家族にひそかに憧れ続けたものでした。

そして60年前、グラビアに彫刻家の故舟越保武氏(「長崎26殉教者記念像」の作者です。ご子息も彫刻家の船越桂さん)ご一家が登場しました。そこで、アトリエで家族と共にたたずむ舟越夫人の道子さんを知り、その美しい姿とご家族の様子が強く心に焼きついたのです。

そしてそれから10数年たった20代の時、郷里で、 “道子”とサインのある染色に出会いました。どうしてそれが彼女の作品とわかったのかについては記憶が定かでないのですが、見た瞬間に分かったのです。まるで彼女に邂逅した気分で、幾度かその作品のある喫茶店に通ったものです。そしてそれから30年近くが経過した2006年の秋、その舟越道子さんのお宅を訪ねることができたのです。彼女は美しい90歳の老婦人になっていました。

2001年、引っ越した町の書店で、舟越道子著「青い湖」という俳句集をみつけました。そして、彼女がすぐ近くに住んでいることが分かりました。散歩の時には時々その前を通ってみました。一度お訪ねしたいと、お手紙も書いたのですが、投函する勇気もなく、でも時間に限りがあることもいつも思っていました。彼女の本を読んで、彼女のお母様の故郷が私と同郷で、驚くべき共時性がいくつかありました。そして郷里で見たあの壁面の染色はやっぱり彼女の作品でした。

彼女は文化学院で、佐藤春夫や与謝野晶子に直接教えを受け文学を志します。しかし、売れない彫刻家のご主人を世に出すまでは、その間6人のお子さんを育て上げる間は、ご自分の文学への気持ちをしっかり紐でくくった(これは彼女が直接聞いた言葉です)そうです。しかし、60代になって、その紐をほどきます。そして娘時代に作った俳句や詩をもう一度蘇えらせ、詩人となったのです。ご家族は誰一人彼女の作品を知らず、本当にびっくりしたとのこと。そして、亡きご主人のアトリエで絵も描いていました。

個展にも誘っていただきました。彼女の口から語られる大正時代・昭和初期の頃の話しが、懐かしく、まるで自分がそこに居たように聞くことができました。母が小さい頃からいつも私に繰り返し語っていた娘時代の話しが、私の体に沁み込んでいたようです。いつまでも聞き続きていたい心地よさがありました。

50年近い思いを実現するのに手を貸してくれたのは、母の従兄弟でした。最近は疎遠になっていたのですが、突然再会する機会に恵まれました。そして彼がなんと、舟越道子さんのご長女と再婚していたのでした。その方が背中を押してくださり、訪ねることができました。不思議なご縁でした。最近、彼女の言葉をまた思いだしています。

私には紐解くものはないけれど、

「これからまた新しく生きることができるのだ」という言葉です。

彼女は2010年1月3日に94歳で逝きました。

 

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