韓信――兵仙(5)韓信は密に陳倉を渡り、漢王朝が天下を征服するための第一歩【千古英雄伝】

(続き)

紀元前206年6月、漢中で盛大な任命式が行われ、漢軍陣営の長期にわたる空席となっていた将軍の候補者がついに確定しました。思慮深い韓信は劉邦の関中への行進をし、天下を制覇するための国士となりました。韓信の計画では、劉邦の軍の最初の標的は三秦地区でした。

漢軍が最初に決めなければならないことは、軍隊を進行するタイミングでした。漢中を離れることがなかった韓信は、常に天下の動きと情勢の変化に注意を払っていました。項羽が領土を分割したとき、不当な分割が原因で、1年の内に反乱が発生していました。まず、齊の長の田栄が自ら王となり、齊の内戦が勃発すると、続いて魏の彭越と趙の地区の陳餘が応戦し、項羽の覇権を揺るがしました。項羽はすぐに田栄を攻撃し、劉邦に注意を向ける時間がなかったので、漢軍に進軍反撃の絶好の機会を与えてしまいました。 

そして、漢中を突破し、項羽から託された3人の「秦の王」を倒す方法は、漢軍にとってほとんど不可能な仕事になっていました。漢中と関中は秦嶺山脈で隔てられており、二つの場所を結ぶ細道は数本しかなく、漢軍にとって褒斜谷のコリドーと陳倉のコリドーの二つの道しか選択余地はありませんでした。しかし、こうしたコリドーは山に穴を開けて建てられた長い橋にすぎず、危険で狭く、軍隊が行進するには不便であり、交差点も激しい秦の兵士によって守られていました。

当初、劉邦は領地に入る前に、軍事専門家の張梁の戦略に従い、褒斜谷の板道を焼き払いました。一方、劉邦は装って項羽に漢中を絶対守るように心を打ち明け、彼の警戒を緩め、それによって三秦の守備隊も漢中を勝手に攻撃してこないようにし、漢軍の勢力の消耗を避けました。それと同時に、劉邦も身を漢中から動かないような姿勢を見せて、東を征服することは天に昇るよりも困難であると見せかけました。

韓信画。(新唐人《笑談風雲》提供)

しかし、これらは軍事に優れている韓信を困らせることはできず、逆にすべての問題を巧みに解決し、将軍に任命された後の初めての第一戦を見事に勝利したのです。彼は最初に樊噲と周勃の2人が率いる二つの軍隊を派遣して、公にコリドーになっている板道を焼かせて壊し、三秦王の一人である章邯の注目を集めることに成功しました。章邯は漢軍が褒斜谷から出兵するだろうと考え、すぐに重兵を派遣して板道の入り口を守り、他のルートの防御を無視しました。
章邯が韓信の計画の罠に落ちたのを見て、韓信は軍を率いて勉県から北に向かい、陳倉路に沿って陳倉の軍事重要地点に軍を進行させました。章邯は三秦軍の中で最強の勢力を持っており、この時点で章邯の勢力は褒斜谷に集中していたため、陳倉はほとんど空っぽの都市になっていました。漢軍は、まるで自分の荷物を取りに行っているように簡単に陳倉を押さえたのです。章邯が気づいて急いで部隊を率いて救援に向かったとき、焼かれた板道を修理しているように装った漢軍の二つの支部が力を合わせて挟み攻撃に加わりました。士気の高い漢軍は三つの方面から攻撃して秦軍を破り、章邯は敗北し自決しました。 
 
続いて、秦の2人の王の司馬欣と董翳も相次いで降伏しました。韓信は漢中を出て北上してから、わずか4カ月で三秦を手に入れたのです。彼の迅速に勝利する戦い方は世の中を驚かせました。
韓信の指揮の下、劉邦は容易く三秦を取り戻しましたが、項羽は依然として世界最強の君主であり、もし彼が軍隊を率いて反撃してきたら、漢軍は依然として勝てません。漢軍の三秦への奇襲攻撃による「反乱」に直面した項羽は、漢軍を消滅させるか、齊を攻撃するかと躊躇していた時、彼の周りの顧問、特に范增は、劉邦が王位を脅かす最大の敵であると信じており、項羽に劉邦を攻撃するよう説得し続けました。 

劉邦は彼の指揮下に多くの才能を持つ人が集まっており、更にもっと貴重なのは、君主と彼の大臣が危機の中で団結できることです。その時、張良は機会を逃さずに秘密の手紙を送りました。彼は項羽に、劉邦は関中の王になりたいだけで、あえて天下を統一するために戦うことはなく、田栄と彭越が共同で楚に反乱を起こしたことが最大の脅威であると伝え、彼らの「反乱書」を添付で送りました。半信半疑の項羽は再び劉邦を手放し、齊の戦争に焦点を当てました。そして、劉邦はこの機会を利用して、関中で彼の基盤を拡大させました。

これはすべて、韓信の功労であると言えます。
この戦いは劉邦の転機となり、漢王朝統一の礎を築いたのです。この戦いも古典的な戦例とされ、各王朝の軍師から高く評価され、「表は板道を修繕し、密かに陳倉を渡る」という戦例として『三十六策』にまとめられています。 

今日、この言葉は再びイディオムになりました。韓信の知恵は戦争だけでなく、日常生活の細部にも浸透しているので、私たちは未だに彼の物語を記録しているのです。 
(つづく)

柳笛