韓信――兵仙(2)知らせていない才能・韓信が漢に戻る【千古英雄伝】

(続き)
秦の末期、「楚は三軒しかいなくても、秦を亡ぼし、楚を勝利に導く」という諺が流行っていました。紀元前209年、陳勝は反乱を起こし、「張楚」政権を樹立し、世の中の英雄を集結させ、項羽劉邦も楚人の子孫として立ち上がりました。比較的平和な淮陰県で、韓信は彼の宝剣のように鞘から抜くのに最適な時期を待っていました。

この秦王朝との戦いの中では、韓信は自らの才能と戦略だけが頼りでした。彼は個人の名利を追い求めないで、国を守りました。そのため一人の本当の国を導く王を選び天下を統一し、平和な世の中を実現しようと考えていました。

韓信はまず項氏の兵士と馬に目をつけました。項梁は楚国の名将・項燕の息子で、名声も高く、彼と彼の甥の項羽は、八千人の江東(今の長江南東地区)の兵士たちを率いて秦と戦うために、さまざまな才能の人材を集めました。軍隊規模はすぐに六万から七万人にまで拡大し、中には各反乱軍の重要な指導者となる者までいました。彼らが淮陰県を通過したとき、剣を持った一人の青年が彼らの軍に入ってきました。彼は無名の兵士のように見えますが、実は彼こそさまざまな戦争で、実践的な経験を積んで無敵の戦争の神である韓信だったのです。

項梁は傲慢で頑固で、敵を過小評価したため、紀元前208年9月の「定陶の戦い」で戦死しました。すると韓信は項羽に目を向けました。しかし、この強大な英雄の項羽は、叔父のように、韓信の真の力を発見できず、彼を「中堅以下の軍人」として、自分のそばに仕えさせただけでした。 

『史記』は、項羽の指揮下での軍生活を短くまとめたものです。韓信は項羽に何度も忠告しましたが、項羽はそれを聞き入れませんでした。寛容な心を持った韓信は、個人の得失を気にせず、地道な観察を通して項羽のさまざまな弱点を知りました。そして項羽が決断を下す重要な瞬間に、韓信は常に立ち上がり、彼を説得するために最善を尽くしました。当時、項羽は「鉅鹿の戦い」で大勝利を収めたことから、叔父よりも強気な態度に出ており、韓信の洞察力に富んだ忠告も全く聞き入れませんでした。

人の才能に気づき、その人の忠告に耳を傾け従うのが賢王の美徳ですが、項羽にはそれがなくて、偉業を成し遂げることができない運命なのです。これが韓信が最終的に項羽から去る理由となります。

韓信の剣を振るう像,《晚笑堂畫傳》より。(パブリックドメイン)

ついに、韓信は楚と漢の存続をかけた「鴻門の会」のとき、護衛の者であり、証人の一人でありました。項羽の顧問である范增は、劉邦を暗殺するための宴会を慎重に計画しましたが、しかし項羽の優柔不断と項伯の密の妨害のために失敗しました。劉邦が偶然に逃げたとき、范增は悲しげに項羽を叱責しました。「あなたと国の将来にかかわる大きな計画について話し合う価値はもうありません!」と。さらに「将来、項羽と天下を争う人物は劉邦に違いありません。ただし、項羽の軍隊は劉邦に敗れます」と予言しました。

当時、劉邦は弱かったのですが、彼の周りには忠実な軍事顧問と将軍たちがいました。張良はこの大惨事を避けるために、項伯に密かに助けを求め、樊噲(はんかい)は優れた言動で項羽の好意を勝ち取り、劉邦も終始、慎重に物事を進めていました。君主と大臣は協力し合い、ついに項羽の警戒を緩め、劉邦は酔ったのを機に急いで逃げました。当時韓信の地位は低く、宴会の間も黙って見守っていましが、このとき楚を見捨てて、漢に入る決心をしました。

紀元前206年、項羽は自らを楚の領主の楚霸王と自称し、各方面の諸侯を封じ、劉邦は疑惑から漢王として祀られ、荒廃した後進の蜀の地に赴任することを余儀なくされました。そして韓信はある日、項羽の宿営を静かに去り、ためらうことなく劉邦と合流しました。それ以来、楚と漢の間の力関係は微妙な変化を遂げ始め、本当の戦神である韓信の神話の時代がやってくるのです。
(続く)
參考資料:《史記》
 

 

柳笛