軍需品にシルクの肌着 その理由は?(上)(大紀元)

チンギス・カン――軍需品にシルクの肌着 その理由は?(上)【千古英雄伝】

「武力をもって天下を争い、王たる者が国を治める」

かつて、向かうところ敵なしとされていたモンゴル兵ですが、チンギス・カンの要求により、すべての兵士にシルクの肌着が配備されていました。

ロバート・マーシャルの著書『Storm from the East: From Genghis Khan to Khubilai Khan』には、チンギス・カンが作り上げた独特な軍隊規則が記されています。それによると、モンゴル帝国時代、軍隊は大部分のモンゴル人の命と生活にかかわっていたといいます。医者、検死官、僧侶を除き、満14歳以上の男性は全員、軍に入隊しなければなりません。

徴兵された青年たちは大家族のもとを離れ、陣地に入ります。妻子も軍隊とともに放牧しながら移動します。

モンゴル移動式住居テント      (Photo credit should read JOEL SAGET/AFP via Getty Images)

医者のゲル(移動式住居テント)や武器・装備分配のゲルは陣地の入り口付近に設置されるため、入隊したばかりの兵士は装備をもらってから陣地に入り、軍隊に編入されます。

モンゴル帝国の軍隊は、十進法単位で編成されています

アルバン――十人隊

ジャウン――百人隊

ミンガン――千人隊

テュメン――万人隊

兵士は常に装備品の手入れをし、定期的に点検を受けなければなりません。もし、装備の手入れを怠ったり、雑に扱ったりした場合、兵隊から除名され、追い出されてしまいます。

兵士の装備には、なんと、シルクの肌着があるのです。これには非常に重要な理由があるのです。

絹織物はしなやかで丈夫であることから、矢や銃弾を防ぐ用途にも使われます。通常、人体に刺さった矢を抜く時には、実は、突き刺さる時よりも大きな損傷を与えてしまうのです。しかし、絹糸に絡められて肉に食い込んだ矢なら、その絹織物の生地を軽く引っ張るだけで、怪我を悪化させることなく、矢が抜けると言うのです。

精鋭部隊である重装騎兵は、金属甲片が縫い付けられた革製の鎧を着用しました。各兵士には木でできた盾と、革製、あるいは鉄製の兜が装備されます。また、2張の複合弓と60本以上の矢が配られます。軽装騎兵は短剣と2本の矛、重装騎兵は湾曲した刀剣、戦斧、そして4メートルにも及ぶ槍を有します。

兵士の装備には、旅行用品も含まれます。馬具、調理器具、乾燥肉、水筒、矢を研ぐためのやすり、針と糸、そしてその他役立つ小道具が含まれています。鞍袋は通常、牛の胃袋全体でできており、防水性があり、伸縮性が良く、川を渡る際には浮き袋としても使用できたのです。

――新唐人テレビより転載

(つづく)

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1995年12月、米紙「ワシントン・ポスト」は、「Man of the Millennium」に選ばれたのはチンギス・カンであることを報じました。その理由は、チンギス・カンはグローバル的な観察力で、ヨーロッパとアジアをつなぐ自由貿易圏を切り開いたことです。インターネットがまだない700年ほどの昔、チンギス・カンはすでにグローバル的な情報流通の道を開き、各国間の距離を縮めたのです。
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