小学6年生の作文:道徳の退廃を論ずる(1)

【大紀元日本7月1日】(編者注:本文は、法輪功の修煉を始めた小学6年生の中国人児童が、弊社連載の『解体党文化』を読んで書いたものの翻訳である。)

悠久の歴史と五千年来の文明を併せ持つ中国はかつて、周辺諸国が朝貢して礼儀と敬意を払う大国であり、アジアにおける宗主国であった。しかし、今日の中国はどうであろうか。ポルノ、ギャンブル、不法薬物、官僚汚職、公安とヤクザの癒着、官民癒着、人民はお互いに騙しあい、ただ利益だけを追い求める・・・これは道徳退廃によるものかもしれない。

道徳がいかに廃れているか、そして、なぜ廃れたのかを考えてみよう。

中華文化はその起源をはるか昔にまで遡ることができ、その中のもっとも気高く中核になるものが、神仏に対する信仰だ。唐朝の太宗皇帝は、仏法を得るために玄奘三蔵を遠くインドまで遣わして経文を持って来させた。南朝の梁武帝は、皇位を放棄して幾度となく出家修行した。清国の満州人は、チベットからダライ・ラマを招聘し、宮殿内で説法をさせた。儒家、道家の創始者である孔子老子は、民衆の尊敬を集め、現在でも香を手向ける人が後を絶たない。漢の文帝、景帝の時代(紀元前180-紀元前141)、唐代の貞観年間(627-649年)が、なぜ後世に長く語り継がれているのか?当時の社会風紀はなぜ穏やかで善良であったのか?それは、人々に信仰心があり、神仏の教えに従って自己を律したからである。古人が言った「頭上三尺に神あり」は、神に対する畏敬の言葉だ。人に畏敬の心があると、自ずとやりたい放題に生きることがなくなり、社会全体の道徳水準もまた大きく向上してくるものである。

ところが今日、神仏に対する崇敬の念には「愚昧無知」のレッテルが貼られ、人々は無信心になった。信仰のたががなくなれば、道徳的な束縛もなくなり、法律、法規もただの形式になってしまった。「己の欲せざるところ、他人に施すことなかれ」という古人の言葉が、「目には目を、歯には歯を」という考えに取って代わられ、人々は傲慢で自惚れ、過度に攻撃的になった。古人の「大海は百川を納め、広大なり;壁は千仞の如く立ち、無欲にして剛なり」(林則徐)という教えが、「東風吹きて、戦いの銅鑼が鳴る。今の社会は、誰も怖いものはない」という考えに取って代わられてしまった。人々は、自ずと互いに騙しあい、でたらめなことをやる。道徳水準の低下が、あらゆる職業において質の低下を招いた。医者は賄賂をもらわないと診察をせず、記者は賄賂がないと記事を書かず、政府が公務をするのにも賄賂が必要で・・・全国の人民すべてが「お金」のことしか頭にないのだ。

現在、人心が金銭と物欲に刺激され、道徳が急速に低下している。今日、私たちは、「暮らしがよくなった」「経済成長を皆で享受する」といった美辞麗句ばかりを耳にし、知らず知らずのうちに中国は確かに成長していると信じ込まされている。確かに、勤勉な中国人民、大胆な改革を行うエンジニア、苦労に耐える作業員、忍耐を強いられる農民、そして外資による投資などによって、表面上では中国の繁栄が創り出されているように見えるが、その背後には、社会の不公平、官僚の腐敗、貧富の格差、道徳の堕落、歪んだ経済体制、言論の弾圧などがある。ただ、これは、中華民族の長期的利益と一致するものではない。清朝末期、上海には外国人居住区が作られ、華やかな西洋文化の社交場が軒をつらね、ネオンサインが輝き、酒宴が華やかだった。それは人々に多少の夢を与えたが、結局は清朝の崩壊は免れなかった。ましてや、今日の繁栄は、社会的弱者への圧迫や著しい環境破壊の上に成り立っているわけで、潜在的な社会的危機と民族の災難を隠してしまうわけにはいかず、それらをきちんと直視しなければならない。

(続く)

(明慧ネットより)