著者の一番目の弟・一(写真・著者提供)

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(11)「裏切られた期待」

私は次第にそこの生活に慣れました。入学して間もないある日のお昼、食事(昼ごはんは学校が先生と生徒のためにまとめて作ってくれる)が終わってグランドで縄跳び遊びをしていると、突然深緑色のトラックがやってきました。軍人のような若い人が何人か降りてきて、車から荷物を下ろし、総務室に運び始めました。多くの先生方も手伝っていました。

 間もなくして、授業開始のベルが鳴り、グランドにいた生徒は皆、急いで教室に入りました。教室に入ってみると、全員の机の上に「福袋」と書いた小さな包みが置いてありました。先生は私たちに、これらの包みは日本からの慰問品で、5月5日の子供の日のプレゼントだと教えてくれました。そして、私たちのことを気遣ってくれている日本政府と関係者に感謝しなければならないと言ったので、クラスのみんなは声をそろえて、「ありがとうございます」と言いました。

 お礼を言うとすぐに、ある男子生徒が包みを開けました。中にはキャンディ、鉛筆、各種の色鉛筆などが入っていました。私は開けずに、放課後そのまま家に持って帰り、母に見せました。母はそれを見ると、一番目と二番目の弟を呼んできて、3人の目の前で封を開けながら、「これは、お姉ちゃんが学校でもらったキャンディよ。一人で食べずに、持って帰って家族みんなに食べさせようとしたの」と言いました。すると、一番上の弟の一がすぐに、「お姉ちゃん、ありがとう」と言いました。私がその場で、「先生は、日本政府に感謝するようにって言ってたわ」と直すと、一はすぐさま、「日本政府、どうもありがとう」と付け加えました。

 実は、そのときの弟と私は、「日本政府」というのがどういう意味なのか、まったく知りませんでした。当時住んでいた沙蘭鎮王家村の「タマゴ石溝」では、毎日の食事は中国の米や麺類とわずかな野菜しかないことだけは知っていました。ですから、中国東北部の春の季節に、日本のキャンディやおやつ、海鮮類の食品を口にできるのは、とても貴重なことでした。

 母は、どれもすべて私たちに分けてくれ、自分では一つも食べず、残りは全部父に取っておきました。当時4歳だった二番目の弟・輝は、食べ足りなかったようで、床に落ちていたビスケットのクズを拾って口に入れようとしたところ、母が「地面に落ちたら、土やほこりが付いて汚いので、食べてはだめよ。今後、東京に戻ったら、食べ物がたくさんあるから、今はとりあえず我慢しなさい。食べたいからといって何でも欲しがってはいけませんよ」と言って、輝を止めました。二人の弟はとても聞き分けがよく、はっきりと「はい」と答えました。一が母に、「お母さん、ぼくたちいつ東京に帰るの」と聞くと、母は、「秋が過ぎて収穫作業が終わったら、皆で東京に戻り、おばあちゃんやお姉ちゃんと一緒にお正月を過ごすのよ」と言ってくれました。

しかし、母のこの約束と

 

 しかし、母のこの約束と、二人の弟が東京に帰って美味しいものを食べるという願望は、結局実現しませんでした。4歳のときに行方不明になった弟の輝は、いまだに所在が分かっていません。当時、地面に落ちたビスケットのクズを拾って食べようとして母に止められた輝の姿が、今でもぼんやりと目に浮かんできます。私は、あの可愛くて聞き分けのよかった弟に、自分の手で袋一杯のビスケットを食べさせてあげたい、もう一度「お姉ちゃん」と呼ぶ声が聞きたいと、どんなに思ったことか……。

 しかし、当時は、お正月に東京に帰れると聞いた私たちは、どんなに嬉しかったことか。私が母に、「お正月までどのくらいあるの」と聞くと、母は、「今5月になったばかりだから、お正月まであと半年あまりよ」と答えました。当時の私は、「半年あまり」という時間の概念が十分理解できませんでしたが、それでも希望が見えてきました。母は、「どんな困難に遭っても、心は『希望』で一杯にしておかなければならない」と教えてくれましたが、これは私の当時の希望でもありました。畑の作物の収穫が終わったら、一家で東京に戻り、おばあちゃんとお姉さんに会えるのです。

 当時私は心から日本へ帰りたいと願っており、密かにこんな決心をしていました。東京に戻ったら、決して二度と出てこないし、おばあちゃんにも、中国の開拓団に戻らないよう、父を説得してもらおう、と。

(つづく)

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それからしばらく経って学校が始まり、私は毎日小道を通って山の麓にある学校に通うようになりました。 
開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。
私たち一家6人の開拓団での生活は、とても簡素で非常に短いものでしたが、私の生涯において非常に特別な意味を持っていました。
第三章 嵐の訪れ:父との永遠の別れと苦難の逃避行 父との永遠の別れ 1945年8月、稲妻と雷が激しく交じり合う嵐の夜、風雨がガラス窓を強く叩き、大きい音を立てて響き渡っていました。
苦難の逃避行 父たちが行った後、学校では授業がなくなり、子供たちは外へ出ないようにと言われました。開拓団本部の若い男の人たちはみな前線に送り込まれ、残ったのは、団長と年配の男の人たち、それに女・子供だけでした。
そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに、一旦歩き出すと何も怖くなくなり、落ち着いて来ました。私は自分に、決して遅れてはならない、と言い聞かせながら、弟の手をしっかり握りました。
私は左右の手で一人ずつ弟の手を引き、3人で横になって山を一気に下りて行きました。そこにはすでに何人か大隊の人が私たちを待っていました。後ろを振り返ってみると、隊列は今朝ほどにはかたまっておらず、人がバラバラと下りて来ており、まだ山の上まで来ていない人もいるようでした。
日が沈み、周りは暗くなり始めましたが、前方にはまだ何の建物も見えず、至るところ林でした。大隊を率いる人が、今晩早いうちに目的地にたどり着くために、道を急ぐよう、皆を励ました。