≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(83)
趙おばさんはこの時になって、私に養女にならないかと言ってきました。それは当時のように私を追い出すような口ぶりではありませんでした。私に懇願して、「趙」姓になるよう頼み込んできたのでした。どのみち、劉家はすでに私を不用としていたので、私を娘にしようというのです。
私は最愛の弟を亡くしていたので悲痛にくれていました。趙おばさんも息子を失って悲しんでいました。私は彼女を見て不憫になり、その要求を断ることができませんでした。私は趙おばさんに応えました。「私は永遠におばさんの娘になります。全有を育ててくれた恩に報います」。私は、学校を卒業したら、お金を稼いでおばさんの面倒を見る、晩年はしあわせに暮らしていけるように…と言いました。
趙おばさんはすでに70歳を超えていました。おばさんは小さいときに天然痘を患い、顔いっぱいにあばたの跡が残っていましたが、当時はすでにそれがはっきりとは窺えませんでした。満面の皺だらけになっていたからです。私は、おばさんの老けて疲れ切った顔を見て、哀れに思いました。私は自らの悲痛を忍び彼女を慰め、学校が休みになったら、必ず会いに帰って来るからと約束しました。
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はじめに: もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことはできなかったでしょう。
趙おばさんはこの時になって、私に養女にならないかと言ってきました。それは当時のように私を追い出すような口ぶりではありませんでした。
私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。
一言では言い尽くせない高校での運命 高校に上がった後、私は1年1組に配置され、関桂琴は2組でした。
寧安一中の時に、孟先生以外で私の面倒をいろいろと見てくれたのは校長の王建先生でした。
文化大革命の間、王建校長はすでに異動していて、寧安一中を離れていました。
2004年に台湾の益群書店より『医山夜話』が出版された。これは、漢方医が患者と共にどのようにして多くの不思議な病を治したかを綴った実話集である。病気と聞くと、人々はよく病院での診断、治療、薬などを思い浮かべるが、人の心、道徳、正念、善行などが病と深く関係していると考える人は多くないだろう。