中国伝統文化への誘い(三) 漢

【大紀元日本12月10日】の王朝(紀元前206年–紀元220年)は、しばしば中国の最初の黄金時代として知られています。漢王朝の歴代皇帝は、黄帝や老子といった先賢の精神に則り、平和と繁栄を維持しました。朝廷、学者、有能な将軍が、新しい発想で中国を活気づけ、領土を広げ、教育の機会をもたらしたのです。

漢の王朝を建てたのは、庶民出身の劉邦です。都の長安は、当時世界でも最大級の都市へと発展し、その後のいくつかの王朝の首都となりました。

王朝のもとで、儒教の教えが官民の道徳基盤となりました。董仲舒などの儒教学者の献策によって、五経博士という研究機関にあたる官職が設立されました。中国全土から選り抜きの人材を集めて、知徳に優れた次世代の高官が養成されたのです。

北方の異民族を制した漢王朝により、中国の領土はこの時期、二倍に拡張します。こうして、人々の移動が比較的安全になり、シルクロードとして後に知られるようになる、中国とローマ帝国を結ぶ交通路の出現に拍車がかかります。

漢の時代には、中国で最も親しまれている多くの名将が生まれました。劉邦による漢王朝の建国を助けた韓信。射った弓が石の奥深くまで埋まったとされ、「漢の飛将軍」と匈奴に恐れられた李広。その他にも、周亜夫、衛青、霍去病など、多くの優れた将軍が挙げられます。

また、中国で最も著名な歴史家であり『史記』を著した司馬遷や、文章家の司馬相如などもこの頃の人物です。そのほか、外交官として大月氏へ赴いた張騫、匈奴への使者に発った蘇武、財政にその能力を発揮した桑弘羊などが挙げられます。

漢の王朝は、紀元9世紀に妃の甥にあたる王莽が皇帝の座を奪ったため、一時的に途切れます。その14年後に劉邦の子孫、劉秀が王莽から権力を奪い、漢を再興します。復興した漢は後漢(紀元25–220年)と呼ばれるようになり、それ以前の漢は歴史上、前漢として位置づけられています。前漢、後漢それぞれに、12名の皇帝が君臨しています。

後漢の時代に、仏教がインドから中国に伝わりました。儒、仏、道の三つの教えが、中国文明を確立し、次の二千年にわたって文化の根底を流れることになります。

全ての王朝の定めに漏れず、漢も興隆、繁栄、衰退を免れることはありませんでした。朝廷は策謀に遭い、いくつかの暴動を抑え込めず、没落の一途を辿ります。北西の軍閥、董卓が洛陽に入り、戦乱の時代が始まります。その後、長江以北の土地を曹操が統一。また、長江の南部(今日の江蘇省も含む)には孫権が、蜀(四川)には劉備が勢力を広げて、歴史小説『三国志演義』として知られる魏、呉、蜀の三国時代が始まるのです。

(大紀元日本編集チーム)