道家の聖地 – 武当山(二)

道家の始祖
 

今から2500年前、釈迦牟尼がインドで仏教を広めていたとき、老子孔子が中国で伝道していました。『史記』によると、孔子は老子に何度も助言を求めていたと記しています。 ある時、老子を訪ねて帰ってきた孔子は、3日間発言せず、ようやく沈黙を破ってこう言いました。「鸟,吾知其能飞;鱼,吾知其能游;兽,吾知其能走。走者可以为罔,游者可以为纶,飞者可以为矰。至于龙,吾不能知。其乘风云而上天,吾今日见老子,其犹龙邪!」意味は「鳥が飛ぶこと、魚が泳ぐこと、獣が歩くことは知っているし、(鳥、魚、獣を)「罔、綸、矰」で捕まえられることも知っているが、龍に関しては、まぎらわしくて見分けがつかないし、風に乗って空を飛んでいるので、私には知ることができない。そして、今の老子を見ると、あの龍のようにつかみどころがなく、理解しがたい存在である」ということです。

その後、老子は函谷関(かんこくかん)を西に去り、行方不明になりました。彼は出発する前に、五千言の「道徳経」を残しています。それは道家の創始古典と見なされています。また、道は中国の伝統文化の不可分の一部となっています。

文化大革命で災難に遭った恐れ
 

中国共産党が政権を取った後に提唱した唯物論と極左論は、自然への従順や天人合一を唱える道教とは相容れないものであり、かつて尊ばれた聖人と古典が、毛沢東が主導した文化大革命で弾圧の対象となりました。僧侶と道教徒は還俗させられ、労働収容所に送られました。経典は燃やされ、道教の寺院は強制的に取り壊され、人々は毛沢東の「天と地に戦い」の考えを植え付けられました。この大惨事では、中国五千年の神文化に残された宝物や文物のほとんどが破壊されました。

当時、武当山には李誠玉という100歳の道教徒がいました。紅衛兵(こうえいへい)が武当山の道教寺院を取り壊すと聞いた彼女は、道教寺院の入り口に静かに座り、平和的抗議を行いました。彼女は血まみれになるほど殴打されても、武当山にしがみついていました。最後に、紅衛兵は彼女の信念を貫く姿に感動し、寺院を守ることができました。残りの24人の道士長は滞在することを許可しました。

煙がゆらゆらと立ち昇っている寺院を散策して、ほのかなお香が涼しい風に吹き、五色の旗が風になびいて踊り、そびえ立つ山の壁の下で、太極拳のゆっくりとした動きが整然と統一に行っている…尋仙修道しようとか、心の平穏を求めようとか、或いは山や川の景色を眺めようとする時には、武当山は間違いなく最善の選択でしょう。

神韻芸術団の2020年の巡回公演「道縁」は、張道陵が趙昇に与えた7つの試練の物語を脚色したもので、武当山を舞台にした舞踊劇です。

(翻訳 啓凡)