三国志を解釈する(7)

【三国志を解釈する】(7)劉備 誓いを破り、大義を失い、白帝城に死す

同じシリーズ

劉備張飛との出会いに続いて、ついに関羽の登場です。張飛の声は雷のごとく、勢いは奔馬のごとくというものでしたが、関羽の相貌は神将のごとく、一身に神威を帯びており、一見しただけで人々に畏敬の念を覚えさせるものでした。関羽は身の丈9尺(後漢の尺度では約208cm)、髭の長さは2尺(同じく約46cm)、熟した棗(ナツメ)の様な紅顔、唇は朱を塗ったよう、切れ長の目、太く逞しい眉を持ち、その風貌は堂々たるもので、威風は凛々たるものでした。

この様な人物は、生涯忠義を尽くし、強く勇ましく不屈であり、生まれながら人に屈しないと定められているのです。そしてその外貌は、劉備の目を通して表現されたものです。

劉備と張飛が出会った日、彼らが酒場で語り合い始めて程なくすると、一人の大男が荷車を押しながら酒場にやって来て、すぐに軍に身を投じなければならないからと店の者に急いで酒を出す様に言いました。この一切を劉備が見ており、関羽に自分達と同席する様に招き、関羽の名前と身の上を知ることとなったのです。関羽、字は雲長、山西省出身で5、6年前に人に危害が及ぶのを目にして義侠心を起こして、当地の権力を笠に着て人々を虐げる横暴な者を殺害し、難を逃れるため各地を流浪せざるを得なくなり、官府が賊を討つための募兵を行っていることを耳にして、応募するために特にやって来たのです。

ここで折よく劉備、張飛と出会ったのです。劉備、関羽、張飛の3人はその徳と志が同様であったことは明らかでした。3人は意気投合し、そのまま一緒に張飛の屋敷に行き、義勇軍への応募の準備をしながら共に賊を討つことについて語り合ったのです。

桃園結義、重きは誓いの言葉にあり

そこで張飛が、自分の屋敷には桃園があり正に花盛りであったので、明日、桃園で天地を祭り、3人で義兄弟の契りを結び、大事を謀るのがよいと提案したのです。これこそが広く知られている桃園結義の物語の由来です。

しかし、これは表面上だけでの意味であり、桃園結義の真の深い含意は、彼らが天地に対して行った誓いの言葉にあり、3人が共に守り抜いていく「義」にこそあるのです。彼らが兄弟の契りを結んだことの目的は共通の志と願いを実現することにあるとも言えます。この点こそが物語の最も肝心な部分でしょう。私達がもしこの誓いの言葉を軽んじるのであれば、それは書籍全体から魂を抜き取ってしまうのに等しいといえるのです。

書籍の中では、「翌日、桃園において黒い牛や白馬などの祭礼の供物を準備し、3人は香を焚き、再拝して『劉備、関羽、張飛、姓は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年同月同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せんことを願わん。皇天后土よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮すべし』との誓いの言葉を述べた」と記されています。彼らは誓いを終え、玄徳を長兄、関羽を次兄、張飛を末弟としました。

「心を同じくし助け合い、困窮する者たちを救うこと、上は国家に報い、下は民を安んずること」とは3人が結んだ最大の「義」でしょう。これは彼らが兄弟の契りを結んだ最大の目的と願いであり、今後は必ず心を同じくして協力していくとされています。また「皇天后土よ、実にこの心を鑑みよ」とは、古人が天地に対して行う誓いであり、これは些細なことではなく、天地からの監視、監察を受けるというものであり、もし「義に背き恩を忘るれば」、「天人共に戮すべし」とは、いつの日か、誰かが誓いに背いて、共に国に報い民を安んずる志やお互いに助け合うという恩義を忘れることがあれば、天の神や世の人に討たれてもよいということであり、これはつまり、一度誓いに背くことがあれば、代価として生命を差し出すということなのです。

孫堅が凄惨な罰を受けることを約束する誓い、数多の矢に射られて死す

昔の人は神を信じており、神の目は稲妻の如く明瞭であり、天を欺いて信義に背くことはできないと考えていたことから、非常に厳粛に誓いを行っていました。張角は悪行の報いを受けて命を失うことになりました。実は「三国志演義」では、張角だけではなく、東呉の孫堅もまた同様でした。当年、曹操は義によって各地の諸侯を連合させ、義軍の連盟を結成し、社稷を助け、故なく漢の少帝を廃した国賊、董卓を討伐しようとしました。しかし、孫堅は董卓が焼き払った洛陽の宮殿で失われていた玉璽を発見しましたが、玉璽を隠し持ち、帝位を称するという反逆の異心を起こし、諸侯連盟が立てた誓いに背いたのです。孫堅は告発されてもこれを認めず、更には袁紹ら皆の前で、もし私が玉璽を隠し持っているのならば、天寿を全うすることができず、刀矢の下で死ぬとの凄惨な罰を受けると誓いを立てました。それから程なく、彼はやはり劉表軍により乱れ飛ぶ矢の中で脳漿を噴出し死ぬこととなりました。僅か37歳での死でした。やはり玉璽を隠し持ちながら、天を欺き、信義に背いたことによって、凄惨な罰を受けるという誓いの通りとなり、天寿を全うすることができなかったのです。

劉備は大義を失い、命を失う

そして劉備は最後に70万の大軍をもって東呉と戦って敗北し、白帝城において死んだこともまた、誓いと関係しています。彼はずっと忠義の心をもって国に報い民を安んじ、漢室を助けるとの誓いを履行してきたことから、民心は帰属し、日増しに強大となり、蜀国を建てるに至りました。

漢の献帝が曹丕に迫られて皇位を廃された時、劉備は蜀国において帝業を継承したのは、やはり漢室の復興のために不忠の臣を討伐するためでした。趙子龍、諸葛亮ら重臣は劉備に対して、公事を重んじて私事を後とし、先ずは献帝のために仇を討ち、漢室を復興させてから東呉によって斬首された関羽を仇を討つべきで、前者は国家の大事であり、後者は兄弟としての私人の情義であると諌めました。

しかし劉備は兄弟の情に流され、大義を忘れ、当初の桃園結義の根本的な目的を忘れ、忠言に耳を貸すことなく、限りない悲痛の中で死んでいった関羽の仇のみを顧み、国力を傾けて東呉を討伐しようとしました。そのことは、国家公共の人的資源や財力を私事に用いるに等しいもので、これはつまり誓いに背くものであり、最終的に劉備は敗北を喫し、自らの忠臣や良将に顔向けすることができず、白帝城にて病没しました。彼の一生はこのちょっとした心得違いにより命を失うことになり、張飛もまた仇を討つことを焦ったことにより、大義を顧みず命を失うことになったのです。

天意とはこの様なものであり、漢室の命数は既に尽きていましたが、作者がこの事例を借りて後代の人々に伝えたかったことは、人々は既に定められているものを変えること、世間の趨勢、王朝の交替を変えることはできないが、身を処するにもその道理があり、成功か不成功かは惜しむに足らず、その過程の中で自分自身の心をどう置くかが最も重要であるかということなのです。

人々は公私を前にして、善悪を前にして、信義を前にしてどの様な行動をとるかが重要なのであり、歴史とは絶えず人々の心を測り、人々の心の過程を試すものです。それぞれの王朝のシナリオは既に定められており、最終的な結果は変えることはできないのかもしれなかったのですが、これもまた作者が常に示し続けてきた真相なのです。

しかしその過程の中で人心、仁義、忠義、信義が試されており、これらを守り抜くことができるかどうかが最も重要なのです。だから漢朝の命数が既に尽きていたとしても、皇帝が暴君でない限りは臣下にある者は国に忠義を尽くすという誓いを実行しなければならず、また行動にも移さなければなりません。成功するか否かは重要ではなく、心と力を尽くしさえすればそれで良いのであり、自らの心にやましいことはなく、つまり「事を謀るは人にあるも、事を成すは天にあり」なのです。これは諸葛亮がなぜ絶えず北伐の軍を中原に進め続け、無理と知りながらも敢えてやろうとした理由でもあります。つまり、先主劉備との約束を実行するためであったのです。

天地に対して行った誓いはつまり、天地との約束であり、必ず守らなければならないものです。劉備が背いたのが大義であり、私人としての小義を履行し、これはこっそり行った悪事ではなかったとしても、同様に報いがあり、決していい加減にしていいものではありません。

劉備ら3人は兄弟の契りを結んだ後、兵を募り馬を購い、武器や甲冑を造りました。劉備の双剣、関羽の青龍偃月刀、張飛の一丈八尺の蛇矛は何れもこの時に造られたものです。彼らは500名の義勇軍を率い、太守劉焉に身を投じた。ここから戦うこと30戦余、彼らは黄巾賊を全滅させる赫々たる戦功を立て、英雄は初めてその威名を示したのです。

しかし宦官が権力を握り、君主を欺き、劉備は安喜県の県尉という小さな官職を得ただけでした。更にこれらの宦官は、賊を討つことに功を立てた多くの者を陥れ、その官職を没収することを企てました。そしてこの事が「張飛怒って督郵を鞭打つ」の古典的な物語を生むことになったのです。(つづく)

 

安喜県:現在の河北省定州市の東南
県尉:古代における県令の補佐官、職権は一般的に盗賊の捕縛、治安の維持などであり、「武官職」に属し、概ね現在の県警察局長に近い

(つづく)
 

劉如
文化面担当の編集者。大学で中国語文学を専攻し、『四書五経』や『資治通鑑』等の歴史書を熟読する。現代社会において失われつつある古典文学の教養を復興させ、道徳に基づく教育の大切さを広く伝えることをライフワークとしている。