≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-
【大紀元日本2月1日】その頃、私は早朝と放課後にできるだけ家の仕事を手伝っており、李素珍おばさんはそんな私に大変満足していました。彼女はよく、仕事を...
【大紀元日本1月23日】時間が経つにつれて、私は謝おばあさんが李素珍おばさんに大変厳しい目を向けているのに気が付きました。李素珍おばさんには懇意にして...
【大紀元日本1月7日】 奇縁により謝家に身を寄せて 1951年の春、養母は閻家後屯に新しく作られた村に引っ越す準備にとりかかり、私は向かいの謝家にあずけ...
【大紀元日本12月21日】私たち二人が旅館に戻ると、大人の人たちが車座になって何やら相談をしていました。 私たちは一人として知り合いもおらず、その大人...
【大紀元日本12月13日】区役所の人たちが私たち子どもに、「明日、東京の町に行って会合に出なければいけない。皆朝早く駅に集合すること。遅刻しないように...
【大紀元日本11月28日】私は沙蘭鎮の小学校に上がってから、弟の趙全有を見かけました。それはまさに可愛く聞き分けの良い弟でした。彼に会っても話す間があ...
【大紀元日本11月10日】 入学後の平静な日々 入学した初日、私は李秀珍や家の西に住んでいた王秀琴と一緒に学校に行きました。彼女ら二人は三年生の学級で...
私は登校するために、自分で急いで布靴を一足作りました。西棟に住む李秀珍のお母さんに教えてもらったのです。
その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられ...
その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。
身売りの話 養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。
養母は後についてくると、私の手からトウモロコシパンを二つとも取り上げました。
私たちは北卡子門を出て、一路北に向かい、閻家村に着きました。空はいくらか明けていました。養母は私の手を引いて村の中に入って行きました。
養母に乞食を強要される ほどなく、私の家は「富農」というレッテルを貼られ、家で値打ちのあるものはすべて「没収」されました。養父もまた自由を失い、仕...
外の雪はますます激しくなってきました。私はそのとき家で一人、本当に不安でした。普段、養母に折檻されたときは、養母のことを本当に恨みましたが、今日は...
あくる日の早朝、養母は食料を背負い、弟の煥国を連れて出て行きました。私は、養母がなぜそんなに早く出て行ったのかわかりませんでした。
私の家が河北の長安村に移ってからほどなく、土地改革が始まりました。隣の王慶図兄さんは、土地改革の民兵隊長で、毎日のように銃を背負っては行き来してい...
ところが、そんなとき、私が養母に最も嫌悪を感じ、受け入れがたかったことは、彼女が私によその家に行って「物の無心」をするよう言いつけたことでした。
当然、そのような恐ろしい経験をした後、私は冬の日に井戸に水汲みに行くのが怖くなりました。
私の家は王喜蘭の屋敷の西の棟にありました。棟と棟は繋がっていましたが、それぞれに仕切られた庭がありました。
私が沙蘭鎮の劉家に連れてこられてからほんの二年間で、新富村で二度引越しし、長安村でもまた二度引っ越しました。 
二度目の引っ越し ほどなくして、何が原因だったのか、養母が大家さんの親戚と喧嘩をしました。養母は、初めはただ口やかましく罵っているだけでしたが、後...
そんなとき、私はよく薄暗い自分の部屋で考えました。養母が私にこんなにも酷い仕打ちをするのなら、いっそのこと、ここを離れた方がいいのではないかしら?...
ある日、王喜杉が外の間に出て来て、使用済みの器具を洗っていました。彼が洗っている小さな柄杓にはまだ茶色い水が残っており、それを注射器に吸い込むと、...
養父が去ってから ほどなくして養父の足はよくなり、家を離れることになりました。私は養父に家にいてほしいと思いました。
どうであれ、養母が不在であった数日は、私はとても楽しくとても自由で、私と弟の趙全有は中庭で、街で見たヤンガ隊の真似をして、自分たちでも踊ってみました。
私は、もしかしたら養父は私を気に入ってくれないかもしれないと、心中、さらに不安になりました。
私と弟が沙蘭鎮に来てからはや数カ月が過ぎ、私たちは中国語が話せるようになりました。ある日、我が家に二人の軍服を着た若い男の人が、何やら入った二つの...
ある日、王潔茹がそっと私に教えてくれました。西院に靴の修繕職人がいて、その家に日本女性がいるというのです。そこで、私は母と二人の弟の消息を何か聞き...
私たちのこの長屋には、西棟の北の間にもう一世帯住んでいました。独身の中年男性で、私は「党智」おじさんと叫んでいました。彼は、趙源家の親戚で、関内の...