端午の節句 もとは邪気払い

【大紀元日本5月14日】

龍舟レースと屈原を偲ぶ

5月5日は端午の節句。七草がゆ(1月7日)、桃の節句(3月3日)、七夕祭り(7月7日)、菊の節句(9月9日)と並ぶ五節句の一つで、元は中国から伝わった行事。日本では、この日は早くから、こども(特に男の子)の立身出世と健やかな成長を願う日だが、元祖中国では昔も今もそうではない。

中国では端午の節句は今も旧暦で祝う。旧暦の5月5日になると、地方によって違いはあるものの、①粽(ちまき)を食べる、②ドラゴンボート(龍舟)レースを行なう、③鐘馗(しょうき)の像を飾る、④ヨモギや菖蒲(しょうぶ)の葉を門口に挿したり身に付けたりする、⑤雄黄酒を飲む、といったことが行なわれるが、日本のようにこどもの健やかな成長を祈るわけではない。

この端午の節句の由来は諸説あるが、有力なのは「邪気払い説」。中国の戦国時代末期に編まれた『呂氏春秋』等の史書によると、5月は「毒月」、5日が「悪日」と言われ、5月5日は「九毒」の最たる日と見なされたことから、その日に邪気払いをする風習が始まり、それが現代の③~⑤のような形で引き継がれているということである。

ただ民間では、「屈原記念説」が広く語り継がれている。同じく戦国時代、楚の国の政治家であり詩人であった屈原(前343年頃~前278年頃)は、秦の謀略に踊らされようとしていた楚の懐王を諫めたが、受け入れられず、結局、懐王は秦に捕らえられ、楚の都は秦の手に落ちた。楚の行く末に失望した屈原は、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に身を投じた。これを知った楚の漁民たちは、幾艘もの小船を出し、その淵に潜むという蛟龍(みずち)に襲われないようにとドラや太鼓を打ち鳴らしながら屈原を探し回った。これが現代のドラゴンボートレースの始まりと言われる。また、人々は、屈原の亡骸が魚に食われないようにと、魚の餌として、竹の筒に米を入れて河に投げ入れた。これが粽の始まりだと言われている。

岡山後楽園の鯉のぼり(撮影・生熊)

日本では、邪気払いから「男の子の節句」へ

日本に端午の節句が伝えられたのは奈良時代ごろと言われる。宮中では、季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄を避けるために、ヨモギや菖蒲などの薬草を摘みに野に出かけ、その薬草を臣下に配ったり、悪鬼を退治するために馬から弓を射たり(流鏑馬〔やぶさめ〕の原型)したようだ。

ところで、日本でも古くから、5月は物忌みの月で、ちょうど、「実りを生み出す」田植えが始まる時期であったことから、田植えの主役であった女性だけが菖蒲とヨモギで屋根を葺いた小屋に閉じこもって、邪気をはらい身を清める「五月忌み(さつきいみ)」という風習があった。中国から伝わった端午の節句がこの風習と結びつき、容易に日本に定着したものと考えられている。ということは、日本の端午の節句は、元々は「女性の節句」だったとも言える。

それが「男の子の節句」に変わったのは、武家社会が確立した鎌倉時代のころ。端午の節句に欠かせない「菖蒲」が「尚武(武を尊ぶ)」と同じ読みであったことから、武家では、端午の節句を尚武の節目の行事として盛んに祝うようになった。そして、江戸時代に入って、徳川幕府が5月5日を重要な式日に定めたことから、大名や旗本がこの日、式服で江戸城に参上し、将軍にお祝いを奉じるようになった。そのうち、武家に男の子が生まれると、門前に馬印(うまじるし)や幟(のぼり)を立てて男児誕生を人々に知らせて盛大に祝うようになったようである。

この風習は次第に、裕福な庶民の間にも広まることになるのだが、庶民は幟旗を立てることが許されなかったため、代わりに中国の故事「鯉魚跳竜門(鯉の滝登り)」にあやかって、鯉のぼりを立て、生まれた男の子の立身出世を祈ったと言われる。そのほか、厚紙で作った兜や人形、紙や布に描いた武者絵なども飾るようになり、それが今日の五月人形へと変化していったようである。

こうして、日本でも本来は邪気払いの日であった端午の節句が、男の子の健やかな成長を祝い、祈る行事へと変わり、庶民の間に定着していったわけであるが、日本ではこの日(新暦または旧暦)、菖蒲湯に浸かり、鐘馗様も飾られることから、端午の節句の本来の由来である邪気払いの風習もそのまま引き継いでいることになる。更には、粽を食べ、沖縄、長崎、相生などでは、ドラゴンボートレース(ペーロン、ハーリーとも言う。旧暦の5月5日前後または夏場)を初夏から夏の風物詩として定着させており、日本人の外来文化受容に対する柔軟さの一端が見てとれる。ただ、粽を食べながら屈原に思いを馳せる人は、日本ではほとんどいないであろうが。

(文・大西)