≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(74)

二年目の夏休みになると、寮に残って帰省しない同級生が増えてきました。私と同学年の一年一組の劉桂琴がいました。そして私たちより一学年下の曹煥玲と周静茹もいました。彼女たちは、妹のような存在でした。

 劉桂琴は、クラスの団支部で書記をしていました。彼女は温春小学校で共産主義青年団に加入していました。幼少の時期に両親を病気でなくし、それからはずっと次女であるお姉さんの家で生活していました。お姉さんのご主人は農民で、人柄はとても誠実で、劉桂琴を自分の実の妹のように可愛がっていました。

 彼女にはさらに三番目のお姉さん・劉桂雲もおり、寧安鎮に住んでいました。お姉さんとご主人はともに、寧安県政府に勤務していました。そのご主人は、日本開拓団の学校で教鞭をとっていた劉全余先生の息子さんでした。当時、劉明仲もまた開拓団の学校で勉強したことがありました。彼ら父子は、まだ日本語を忘れておらず、かなり流暢に話していました。

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二年目の夏休みになると、寮に残って帰省しない同級生が増えてきました。私と同学年の一年一組の劉桂琴がいました。そして私たちより一学年下の曹煥玲と周静茹もいました。彼女たちは、妹のような存在でした。
私と弟は、水入らずで話すことはありませんでしたが、この目で弟を見ることができるだけで満足でした。
孫おじさんの死 再び「父親」を失う 私がちょうど中学三年に上がった冬のある日、孫おじさんが病気で牡丹江の療養所に入院しました。
弟の悲惨な死 孫おじさんから亡くなったてからというもの、私は総じて喪失感に似たものにとりつかれ、精神が不安定になり、何をしても手につきませんでした。
沙蘭はあたり一面真っ暗でした。すでに深夜になっており、明かりを灯している家はほとんどありませんでした。峰をおりる時、小走りに歩を進め、村に入ってからは真っ直ぐに趙全有の家を目指しました。
趙おばさんはひとしきり泣くと、泣き止みました。そして、こう話しました。「全有は帰ってきた次の日に発病し、高熱を出したんだよ。病院の先生は、ペニシリンを数回打てば良くなると言っていたけど、私はあんなものは信じない。
その時、私は溢れ出る涙を抑えることができず、弟に何を言えばいいかわかりませんでした。
帰って来る道中、張小禄おじさんが私に言いました。「全有は、養母に殺されたようなものだ。もし養母が金を惜しまずに、医者に診せて注射でもしてやっていたら、死ぬこともなかったろうに。
趙おばさんはこの時になって、私に養女にならないかと言ってきました。それは当時のように私を追い出すような口ぶりではありませんでした。