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チンギス・カンーー「大草原の王者」(一)【千古英雄伝】

モンゴル帝国を開いたチンギス・カンは、かつてテムジンとも呼ばれ、金王朝を破り、西夏を臣服させ、西遼を滅ぼしました。また、何度も遠征し、アジアを越えてヨーロッパにまで領地を拡大させ、世界最大の領土を持つ帝国に成長する基礎を残し、同時に中国とヨーロッパの経済促進や文化交流をも促しました。

 

試練

南宋の時代、モンゴルは、キヤト氏族、タタル部族、メルキト部族、ケレイト部族、ナイマン部族など、多くの部族に分かれ、お互い生存していくため、部族間において残酷な戦いが頻繁に繰り広げられました。

チンギス・カンの父親であるイェスゲイ・バアトルはキヤト氏族の首長の一人で、タタル部族との戦いで、相手の首長であるテムジン・ウゲを捕虜とし、そして、戦勝を記念するため、その後すぐに生まれた長男にテムジンと名づけたのです。

テムジンが9歳の時、イェスゲイは帰宅の途中で立ち寄ったタタル族に、正体を見破られ、料理に毒を盛られて程なくして亡くなりました。イェスゲイの死により、キヤト氏族に付属していたタイチウト氏族が主導権を握るようになり、テムジンが復讐しに来ることを恐れて、大量の兵を派遣して、当時、他の部族にいたテムジンを急いで捕まえようとしました。

その後、何とか逃れたテムジンは母親と兄弟たちに連れられて、山中に隠れ、狩猟や野菜などを採集しながら非常に苦しい生活を送りました。生活における様々な苦難を経験してきたテムジンは、同時に、強固な意志と不撓不屈の精神を磨き上げたのです。

 

5本の矢の教え

ある日、テムジンは腹違いの兄弟ベグテルと言い争いになり、弟のカサルとともにベグテルを射殺してしまいました。このことを知った母ホエルンは激怒し、2人を厳しく叱り、1本の矢は簡単に折れるが、5本の矢は折れにくいという例をもって、子どもたちに他人と協力して、団結してこそ、大きな力を発揮できると諭しました。

母親の訓戒を聞いて、テムジンは自分の行いを恥じ、何事においても争って優位に立とうとする性格はわずかながら変わっていきました。

モンゴルでは、他人の馬を盗むことは非常に憎むべき行為です。ある日、テムジンが狩猟に出かけている時、一家のほとんどの馬が盗まれました。このことを知ったテムジンは自分の馬に乗って、単独で盗賊たちを追いかけていきました。

その道中、牛を相手にブフ(モンゴル相撲)をしている少年ボオルチュと出会いました。ボオルチュはよくテムジンを助け、2人は盗賊の後を追いかけ、見事盗まれた馬をすべて取り戻したのです。

少年とは思えないボオルチュの義俠、智勇に感銘を受けたテムジンは彼と固い契りを交わし、以降、ボオルチュはテムジンの最初の部下として、親友として行動を共にし、数々の功績を収めました。

テムジンは父親の後を継ぎ、あちこちに去っていった配下の遊牧民やかつて父親につかえていた戦士たちを探し出しました。寛大な心を持ち、知略縦横で、かつ戦に長けたこのモンゴルの若き青年は、間もなくしてモンゴルでも傑出したリーダーとなり、その実力もどんどん磨かれていったのです。

(つづく)

(翻訳編集 天野秀)

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