楊氏の女将軍、鉄甲騎兵を撃破す(1)宋軍の苦戦

【前言】中国の歴史書『宋史』のなかで、北宋の武将楊延昭(ようえんしょう)は北辺の国境を守り、20年以上にわたり北方の異民族王朝である遼(916~1125年)に対して徹底抗戦を続けた英雄でした。その智勇と奮戦ぶりは、敵である遼軍にも知られており、同じく有能な武人であった父・楊業の六男であったことから楊六郎とも呼ばれていました。

楊延昭とその一族が祖国を守って奮戦する忠義は、やがて物語になり、とくに元代以降は各種の版本によって戯曲や小説となりました。それらの物語は、人々に広く伝わり、愛されたのです。

ここで紹介する『楊延昭伝奇』は、筆者が民間に伝わった逸話のいくつかを要約・抜粋したものです。千年にわたって中華民族に語り継がれてきた英雄の物語を、読者の皆様にお伝えします。

鉄甲騎兵とは、騎士と馬の両方が強固なよろいに身を包んだ軍団をいいます。非常に高い防御力と攻撃力をもつこの軍団は、主として最前線で敵の歩兵陣を突破することにより、洋の東西を問わず輝かしい戦果を記録しています。

鉄甲騎兵とは、騎士と馬の両方が強固な鎧に身を包んだ軍団をいいます(イメージ画像)

 

中国の北宋時代には、敵側である遼にも騎馬民族ならではの精鋭部隊があり、一時は宋軍を苦戦させましたが、この遼軍はどのようにして最終的に敗北したのでしょうか。これはまさに河北の地で千年にわたって伝えられてきた、楊延昭とその一族の女将軍が遼の鉄甲騎兵を打ち負かしたという伝説です。

遼の大将軍である韓昌は、楊延昭を相手にたびたび敗北を喫していました。しかし、その敗北を甘んじて受けず、戦法を変えることで、いつか「捲土重来」するぞと願い続けていました。

そこで韓昌は、遼の蕭太后の同意を得た上で多額の資金を投じ、鉄甲騎兵の部隊を訓練しました。これをもって、3つの関を攻撃する準備を整えていたのです。この騎兵はみな厳選された屈強な者たちであり、その身には鍛え上げられた鉄のよろいをまとっています。これが3~5騎と、まとまって突撃するのですから、平原の戦いにおいては、ほとんど無敵と言っても良いでしょう。

この鉄甲騎兵の訓練を行った後、韓昌はついに「時は今ぞ」と感じるに至りました。そこで韓昌は、耶律休哥、耶律慶、土金秀、大鵬、黑塔、麻里、招吉など十余の諸将と5万の大軍を率いて、淤口関(おこうかん)を突破する戦いに臨んだのです。

このとき、韓昌にとって幸運だったのは、宋軍の楊延昭が重なる疲労のため病を発していたことです。しかし、防御の手を緩めるわけにはいかず、楊延昭は病の痛みをこらえて出陣しました。

韓昌は、敵陣に楊延昭(楊六郎)が現れたのを見て、大音声(だいおんじょう)を上げました。
「楊六郎よ!これまで汝(なんじ)は幸運にも数度にわたり我に勝利し、我をして蕭太后さまの面前にひれ伏せさせてきた。しかし今回はそうではない。我が手中に鉄甲の大軍あり。その脅威を今、思い知らせてくれよう!」

これを受けて、楊延昭も大音で返します。
「おお韓昌よ!世迷言も、いい加減にせよ。もはや汝の手の内は見えているぞ!」

韓昌と楊延昭。両雄は対峙し、ついに一騎打ちとなりました。楊延昭は病中の身であるため、長く戦うことを望んでいません。そこで楊延昭は、できるだけ短時間で韓昌を倒すため、続けざまにやりを繰り出しました。韓昌は、楊延昭の猛攻を受け流すのに精一杯です。戟(げき)を交わすこと数十合。ついに韓昌は耐えられず、馬の方向を変えて自陣に戻ると、全軍突撃の号令を発しました。

遼の将軍である耶律慶、土金秀が重装備の鉄甲騎兵を率いて、まるで洪水のごとく、猛獣が襲いかかるように前進して来ます。それを見た楊延昭は、岳勝、楊興、焦贊の諸将に防御の陣を敷くよう命じました。

また、弓矢の射手には矢を放つよう命じましたが、はじめの矢は、敵の鉄甲騎兵にかすり傷ひとつ負わせられませんでした。そこで宋軍の孟良は、すかさず強力な石弓隊を前線に進めます。

そこで宋軍の孟良は、すかさず強力な石弓隊を前線に進めます(イメージ画像)

 

石弓の数射により、敵の第一波にある程度の損傷を与えることができました。しかし、それでも遼軍の突撃攻勢を食い止めることはできませんでした。
こうした重装の鉄甲騎兵が3騎から5騎、連環馬(鎖で横につながれた騎馬)となり、長やりを手にして、宋軍の第一線に猛攻撃を仕掛けてきたのです。

これに対して宋軍は、岳勝、楊興、焦贊などの諸将および楊家の将士たちが正面から迎撃。双方による激戦が一段落した後、宋軍は辛うじて敵の鉄甲騎兵を阻止したものの、自軍にも多数の死傷者が出てしまいました。

楊延昭はまた、陳林と柴敢に将兵を率いて敵の側面を突くよう命じましたが、戦闘は久しく膠着状態が続きました。遼軍の頑強な鉄甲騎兵を前にして、わずかに岳勝、楊興、焦贊などの将軍が敵に大きな損失を与えたものの、一般の兵士は明らかに劣勢におかれていたのです。

この時、後方にいた韓昌は、再びある命令を発しました。耶律休哥、大鵬、黑塔などの諸将に大量の鉄甲騎兵をもたせ、数波にわたる攻撃を行うよう準備させていたのです。

戦局不利とみた楊延昭は、即座に愛馬「白竜」に跨って敵陣に突入し、耶律慶と土金秀の二将を攻めました。2人は槍を振り回して防戦しましたが、楊延昭の攻撃はすさまじいものでした。戟を交わすこと十余合、二将は刺されて落馬し、負傷した体を引きずって逃げました。

それを見た宋軍の士気は大いに高まりました。全軍力戦して敵を打ち破り、じわじわと鉄甲騎兵の第一波を押し戻していったのです。

しかし、その数倍の敵軍が到来するのを見た楊延昭は、自軍のさらなる損失を避けるため、各隊には城へ戻るよう命じました。岳勝、楊興、陳林の諸将には「殿軍となり、戦いながら後退せよ」と命じます。楊延昭は、自身の親衛隊だけを率いて前線に残留し、敵の追撃を防ぎました。

楊延昭が手にするのは、名高い「素纓蘸金のやり」です。この名槍を振るって、敵陣に突入するさまは、まるで山から飛び出した猛虎のようです。楊延昭は、楊家に伝わる槍術の精髄を駆使し、鋭利な穂先を繰り出していきました。

すると、敵軍のぶ厚い鉄甲が、まるで薄紙のように突き通されるのです。楊延昭は、その数刻の間に、何度かの敵軍の連続攻撃を受けましたが、地面にできたのは討たれた敵兵が発した数条の血流でした。

その血の流れの傍らには、鉄甲をまとった戦士が大量に倒れています。いま戦場にあるのは、天の戦神が降臨したような楊延昭の姿でした。それを目にした遼軍の兵士は、もはや戦うことを恐れて前に出ようとしません。

この時点で、宋軍の大部分が城内に退却していました。遼軍の将である耶律休哥、大鵬、黑塔などが率いる後続の大軍が到着した頃には、すでに宋軍の城壁に石弓や大砲が連ねられ、一斉射撃が始まっていました。ここまで追撃してきた遼軍でしたが、もはや一歩も進むことができません。

楊延昭は「韓昌よ!今日は、ここまでだ。日を改めて、再び戦おう」と叫び、城内へ戻りました。

(つづく)
 

仰岳