
華佗(かだ)は、字が元化で、名が敷と言い、後漢末期に生まれ、三国時代の名医でした。華佗は少年時代から故郷を離れ、遊学し、仕途を求めず医術を研鑽しました。彼は幅広い...

現在の中国人と違って、上古三代の中国の先祖達は皆、神を信じていました。彼らが信じる神々の中には、自然神もあれば、祖先神もあり、そして、これらの神々の中に、すべてを...

日本史上における中国文化の受容は、大陸から海を隔てた日本にとって、程よい春風であった。この点は、大国の文化的圧力という強風をまともに受けねばならなかった朝鮮半島と...

日本ではお辞儀を見ない日はありません。お辞儀は日本を代表する習慣となっています。しかし、そもそもなぜお辞儀をするのでしょうか?

中国の古代建築は深厚な中華伝統文化に根付いています。それは天人合一の宇宙観、道法自然の思想、調和を重んじる理想を体現し、中国の伝統文化のなかで大きなウェイトを占め...

万字「卍」は古代から伝わる普遍的なシンボルマークであり、元々は幸福と幸運を表すサンスクリット語の「SVASTIKA(スワスティカ)」に由来する。

中国の悠久の歴史の中で、各王朝に有名人は少なくないが、その時代が過ぎるとともに多くの人の名が消え去ってゆく。僅かな人だけが、歴史とともに忘れられることなく、今でも...

司馬遷は中国の歴史上で最も有名な歴史家で、彼の『史記』は「二十四史」(中国の王朝の正史24書のこと)の第一に数えられ、中国の歴史上における最初の紀伝体の通史として...

世の中の出会いはお別れ後の再会です。中国の民間伝説では、恩を報いるため、または借金を取り立てるために生まれ変わる物語が多くあり、世の中の出会いは偶然ではなく、前世...

『竹取物語』は、『源氏物語』の絵合の巻に於いて「物語の出で来はじめの祖」と評され、日本最古の物語とされています。伝承された説話をもとに10世紀中頃までに成立し、作...

『西遊記』の物語で次のような桃のお話が出てきます。玉皇大帝は孫悟空を蟠桃園に派遣して蟠桃園の番をさせましたが、土地神から蟠桃園の桃を食べる仙人になれて不老不死でき...

中国明王朝の建寧府知府事を務めた郭子章は、誠実で有能な人でした。ある日、郭子章は新任の役人として水西路へし赴任する際、前橋というところを通る時、周辺の風景があまり...

日本でよく知られている目、耳、口を両手で塞いでいる三猿は、現在、スマートフォンの絵文字として使用されるほど、すっかり市民権を得ており、世界中の人々に愛用されるよう...

古代四大文明のうち、他の三大文明はみな中途で滅びてしまい、黄河文明だけが生き永らえ、かつ絢爛華麗な文化を有り余るほど創出し、人類文明史上の一大奇跡をつくった。

精巧に描かれた24の鳥や昆虫。スズメの親子のさえずりや、今すぐ飛び立ちそうなハチなど、優れた観察眼がうかがえる『写生珍禽図巻』は、五代十国時代(907年―960年...

「空腹は最高のソース」という西洋のことわざがあるが、古代中国でも同じエピソードがある。明代の嘉靖(かせい、1522-1566)年間に大臣を務めた劉氏は、退職すると...

郭巨は、晋代の隆慮(現在の河南省林県)の人で、裕福な家の生まれであった。父の死後、彼は家の財産を二人の弟に与え、自分は母を引き取り、親孝行を尽くした。

梁元帝の時代、ある士人がいた。士人は、小さい時から非常な才能に溢れていたため、父親から寵愛を受けたが、良き教育を受けていなかった。士人の言い出す話にちょっとでも理...

昔、景春という人が孟子に言った。「公孫衍、張儀こそが真の大丈夫(立派な男)とは言えませんか?二人が一旦怒り出しますと、各国諸侯はびくびくして落ち着かなくなります。...

老菜子(ろうらいし)は、春秋時代の楚国の隠居人で、世の戦乱を避けるため、蒙山の南麓で自ら耕す生活を送っていた。彼は両親に孝順で、おいしいものを選りすぐっては両親に...

宋の粛王と沈元が使節として北方へ行き、燕山で宿をとった後、言葉使いが非常に優美な3000字ほどの唐の石碑を見つけた。沈元は記憶力が非常にたけていたので、何度も朗誦...

剡子(ぜんし)は春秋時代の人。年老いた両親は目を患っており、治すには鹿の乳を飲まなければならなかった。そこで、剡子は鹿の皮を身にまとって深山に入り、鹿の群れに紛れ...

閔損(びんそん、紀元前536年-紀元前487年)は、字を子騫(しけん)といい、春秋(周朝)魯国の人。孔子の弟子で、その徳行は顔淵と並ぶほどであった。閔子騫の母は早...

密教修煉の中には、さまざまな不思議な生命現象がある。例えば、活佛転生の現象、人が心の中で考えていることを察知できる「他心通」の現象、マイナス40度の雪の中で裸のま...

晏子(あんし)は、春秋戦国時代の斉国の賢明な宰相であった。斉の国王・景公の愛娘が晏子に嫁ぐことを望んだことから、景公は晏子の家に出向いた。二人が酒を飲んでいるとき...

明朝の後期、後に後代の人々から「明清四大高僧」の一人と謳われた、憨山(ハン・サン)和尚という人物がいた。これは、憨山和尚が托鉢をしていたときのエピソードである。...

東漢のころ、陸績(りくせき)という非常に博識で多才な男性がいました。呉郡呉県(現江蘇省蘇州市)出身で、天文暦学に精通し、「渾天図」を著しました。また、「易経」と「...

古代中国では、未亡人が再婚しないことをよしとする風潮がありました。夫を亡くした女性が残りの人生を独身で過ごすことは、夫への忠義と貞節を守り、徳を積むことだとみなさ...

北宋の政治家で、歴史家でもある司馬光(1019 - 1086)は、紀元前403年から紀元969年までの歴史を編年体で綴った『資治通鑑(しじつがん)』を編集した人物...

子路は、姓を仲、名を由といい、又の字を季路といった。春秋時代の魯国の人で、孔子の自慢の弟子の一人。性格は率直・勇敢で、非常に親孝行であった。