≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(66)
趙おばさんは、当時たしかに私を娘にしたいと考えており、何度も趙に改姓するよう言いました。ただ、私は趙になんか改姓したくありませんでした。というのも、私は趙玉恒の家を飛び出してきたばかりで、小学校の同級生たちも皆、私が趙玉恒の家に売られたトンヤンシーで、だからこそ趙家は私が学校に上がって勉強することを認めたのだし、学校を出た後は正式に結婚することになっていると知っていたからです。
小さな片田舎の沙蘭鎮では皆が、私のことを日本人の子供で「お馬鹿者さん」というんだということを知っており、養母は私に腹を立てて、結局私を売ってお金を手に入れたということまで知っていました。だから、もし私があの当時すぐに趙淑琴と改名していたら、学校の同級生たちはきっと、私が本当に趙家への嫁入りに同意して、本当に趙玉恒の家の人間になったんだと誤解したことでしょう。
だから、私は心の中では趙姓になることをとても嫌がっていたのですが、そのことをおばさんに直接はっきり伝えるのも難しく、結局、「今はとりあえず改姓せず、中学に入ってからにしましょう」と相談しました。
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風は次第に弱くなり、大雨もまた小ぶりになって、暴風雨が去ろうとしていました。夜が明けると、私は学校を離れ、川の南にある趙おばさんの家へ向かいました。
大きな劫難がやっと過ぎ去り、私はまた絶望の中で再び謝家に戻りました。心を落ち着け身を寄せることのできるところが見つかり、流浪の日々で疲れた心
合格通知書が区政府に届き、区の教育担当助手が鐘家に報告に来てくれました。私は沙蘭地区の受験生の中でトップ合格でした。
第五章 中学の時、孫おじさんと唯一の弟を亡くす「出自が道徳規準に勝る」という困惑に初めて直面する 1954年、寧安一中がちょうど建設されました。
当時、私の前の席に宮崇霊という女の子が座っていました。彼女は勉強が遅れており、特に数学が良くありませんでした。
中学に入って間もなくして、私もこの「共産主義青年団」に入りたくなりましたが、自分が日本人の子供で、劉家は共産党によって「富農」とみなされ、養父もまた日本統治下の満州政府で警察官をやっていたこともあって、いろいろと思い悩みました。
この度の先生の話は、出身により私に思想的な問題があるという批判教育で、中学に来てから初めて聞くものでした。私は本当にその当時、その本当の意味が何なのかを理解することができませんでした。
私が入学して間もない秋、東京の町に住む孫おじさんが様子を見に来てくれました。冬を越す綿入りの服、綿入れのズボンを買いに連れて行ってくれ、さらには綿入りの靴まで買ってくれたのでした。
二年目の夏休みになると、寮に残って帰省しない同級生が増えてきました。私と同学年の一年一組の劉桂琴がいました。そして私たちより一学年下の曹煥玲と周静茹もいました。彼女たちは、妹のような存在でした。