≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(78)

弟の悲惨な死

 孫おじさんから亡くなったてからというもの、私は総じて喪失感に似たものにとりつかれ、精神が不安定になり、何をしても手につきませんでした。数日間は夜になると夢を見ましたが、それは孫おじさんか弟の趙全有の夢でした。朝目が覚めて、何やら胸騒ぎがし、不安を覚えます。私の唯一の肉親である弟の趙全有が、孫おじさんに続いて、世を去ろうとしていたのです。

 それから何日もせずにして、学校の団委員会書記であった魏先生が慌ただしくて私の寮に来て、「沙蘭鎮から手紙があった。すぐに趙全有の家に帰るように。彼は重病で、とても危険な状態のようだ」と知らせてくれました。

 魏先生はさらに私に、旅費の足しにと一元をくれました。そして、すぐに身支度をして急いで出発すれば、東京の町へ行く汽車に間に合うというのです。

 私の頭の中は真っ白で、何も考えることができませんでした。ただ魏先生に「ありがとうございます」とだけお礼を言って、すぐに外に飛び出しました。

 魏先生は後から自転車で追いかけて来て、私を自転車の後ろに乗せると、駅まで送ってくれました。汽車はすでに駅に入っており、魏先生は車掌に何やら話すと、私に急いで乗車するよう言いました。

 私が乗り込むと、ちょうど汽車のドアが閉まりました。私が汽車のドアから外を見ると、魏先生は改札口の所に立って、私に手を振っていました。私は思わず涙が流れてきました。

 汽車を降りると、もう日が暮れており、沙蘭行きのバスはありませんでした。私は歩いていくほかしかたありませんでした。しかし、駅から沙蘭鎮まで、大体20キロ近くあり、歩くと数時間はかかります。しかも、真っ暗で寒かったのです。

 私は何も考えず、慌ただしく出てきたので、手袋もマフラーもありませんでした。しかし、その時には心の中が急いていて、寒さのことなど忘れていました。ただ一刻も早く、弟の家に着きたいという一心でした。

 私には、弟が病で倒れるなんて想像もできませんでした。どんな病気だというのでしょうか。それも深刻だという話です。思えば思うほど恐ろしく、恐ろしく思えば思うほど、全身が氷のように冷たくなり、しきりに身震いがしました。

 私は、でたらめなことをあれこれ考えていると、早く歩けなくなると思い、自らをなぐさめ励ましました。そのうち走り始め、疲れては歩き、少し休んではまた走りました。

 私は一人だと進むのも速く、間もなく三霊屯の大橋を過ぎました。おそらく、もう半分近く進んでいるはずで、さらに胡家屯と木其屯を過ぎれば、すぐに沙蘭鎮に着きます。

 私は進みながら、自分を励まし勇気づけました。恐れることなく、あきらめることなく進めば、すぐに着くはずです。弟の家に着いたら弟に逢えると思うと、心には希望の灯がともり、足もいっそう速くなりました。

 ついに沙蘭の東の嶺に着きました。

 (続く)

 

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