≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(79)
沙蘭はあたり一面真っ暗でした。すでに深夜になっており、明かりを灯している家はほとんどありませんでした。峰をおりる時、小走りに歩を進め、村に入ってからは真っ直ぐに趙全有の家を目指しました。
中庭に入ってみると、家の中にはランプが灯っていました。玄関には鍵が掛かっておらず、私はノックをすると、直接家に入って行きました。
家の中はとても暗かったのですが、弟が骨と皮ばかりに痩せ細り、魂が抜けたかのようにオンドルの上に横たわっているのがはっきりと見えました。私は唖然として、これが私の弟「一」だとは信じることができませんでした。ほんの数ヶ月見ないだけで、こんなにも痩せてしまったのです。
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沙蘭はあたり一面真っ暗でした。すでに深夜になっており、明かりを灯している家はほとんどありませんでした。峰をおりる時、小走りに歩を進め、村に入ってからは真っ直ぐに趙全有の家を目指しました。
その時、私は溢れ出る涙を抑えることができず、弟に何を言えばいいかわかりませんでした。
帰って来る道中、張小禄おじさんが私に言いました。「全有は、養母に殺されたようなものだ。もし養母が金を惜しまずに、医者に診せて注射でもしてやっていたら、死ぬこともなかったろうに。
趙おばさんはこの時になって、私に養女にならないかと言ってきました。それは当時のように私を追い出すような口ぶりではありませんでした。
中学卒業と高校受験、趙おばさんの死 学校が始まった後、私たちは高校に進学するため、毎日勉強に忙しく、私はずっと沙蘭に帰ることができませんでした。
私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。
一言では言い尽くせない高校での運命 高校に上がった後、私は1年1組に配置され、関桂琴は2組でした。
寧安一中の時に、孟先生以外で私の面倒をいろいろと見てくれたのは校長の王建先生でした。
文化大革命の間、王建校長はすでに異動していて、寧安一中を離れていました。