THE EPOCH TIMES

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(38)「日本人妻との出会い」

2008年06月12日 00時00分

 私が沙蘭鎮の劉家に連れてこられてからほんの二年間で、新富村で二度引越しし、長安村でもまた二度引っ越しました。

 今度の我が家は、北卡子門からさほど遠くない所に移りました。ここの大家は王喜蘭といいます。先ほど述べた、数日逗留するだけだった家の大家であった大地主の王敬峰の身内でした。

 私たちは、引っ越してから、この周囲の人の姓がみな王であることに気がつきました。聞くところによると、彼らはみな血縁のある「大家族」で、皆が親戚でした。

 王喜蘭には三人の息子と一人の娘がいました。長男は王慶図、次男は王慶海、三男は王慶禄といい、一番下の女の子は王桂芳といって、私より少し歳下でした。

 おもしろいことに、長男の王慶図の嫁は日本人で、上原豊子さんと言いました。彼女は、日本の香川県から勤労奉仕で中国に来たのでした。彼女たちは、当時はまだみんな18歳の女学生でしたが、中国に来てからまもなくして「光復」(※1)となり、日本に帰れなくなりました。そして、生きるために中国人と結婚したのでした。

 王喜蘭の家の東側にも、王姓の家がもう一世帯ありました。その家には二人の息子がおり、長男の王喜太もまた日本女性を妻としていました。彼女の名前は唐渡敏江さんといい、やはり香川県の人で、上原豊子さんの同級生でした。

 日本が終戦を迎えた当時、婦人であれ、勤労奉仕の名の下に中国に来た若い娘さんであれ、日本女性は、生きるために中国人と結婚する道を選ばなければなりませんでした。そして、このような日本女性を安価で手に入れて嫁にした中国人は、その多くが貧乏人か、もしくはお金がなくて嫁の来てがなかった年配の男たちでした。それゆえ、その当時の日本女性たちは、自分より10歳も20歳も年上の中国人男性と結婚しなければなりませんでした。

 私が後に沙蘭鎮で知り合った日本人妻の夫はかなり年上でしたが、彼女たちは自分の夫には献身的に尽くし、よく面倒を見ていました。夫が老齢で、病気がちであっても、嫌がることはありませんでした。

 彼女たちが、夫が引き取ってくれたことを恩に思っていたにせよ、はたまた別の理由があったにせよ、私は彼女たちの献身的な様子を見て、結婚に対して責任感のある彼女たちの姿勢に感動しました。

 私たちのところの上原豊子さんと唐渡敏江さんは、他の日本人妻と比べればまだ幸せと言えました。二人の夫はともに20歳あまりで、年がつりあっていました。しかも、二人の夫は顔立ちが端正で、彼女たちはとても運がよかったと思います。特に、当時のような境遇の中では。

 彼女たちは既に子供を生んで母親になっており、生活も安定していました。生きるか死ぬかのようなあの状況下で、あのようにお似合いで生活も安定している夫に巡り逢えたことは、彼女たちにはとても幸せなことでした。

 私は、家のすぐ近くに、子供を生んで母親になっている大人の日本人が二人もいるのをうれしく思いました。私は、彼女たちの傍にいれば、何かあったら、彼女たちに相談できるし、助けてくれるかもしれないと思いました。そうなれば、自分はもう孤独ではなくなると思ったのです。

私たちが引っ越してきたとき

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