中国権力闘争

2011年「江沢民死亡」報道の裏側

2017年04月05日 16時00分

 2011年7月、香港のテレビ局が「江沢民死亡」を報じた。突然のこの発表に、多くの中国人が爆竹を鳴らし喜びの声を上げたが、その後国営メディアによって否定された。この報道は、胡錦濤が江沢民に対する全面的な反撃を開始したというシグナルであり、その一連の計画の始まりだったと認識されている。

江沢民の死亡報道は意図的に行われた

 11年7月6日夜、香港の亜洲電視(ATV、16年に放送を終了)が江沢民の病死を報じた。だが中国メディアがその報道を否定したのは、それから18時間も経ってからで、否定報道を行った新華社通信も、西側メディアに対し英文のフラッシュニュースで、「江沢民死亡は全くのデマ」と控えめに報じただけだった。さらに翌7日に開かれた中国外交部の定例記者会見では、これについて3度質問を受けた洪磊報道官はいずれも明確な回答を避け、「この件については新華社通信が報じているため、そちらを参照頂きたい」と述べるにとどめた。

 12年2月6日に江派の薄熙来の側近で重慶市副市長だった王立軍が、成都市の米総領事館に駆け込むという、いわゆる王立軍事件が起きた。その後、消息筋が大紀元に対し「去年流れた江沢民死亡説は、実は胡錦濤が江派に全面的に反撃を開始しようする表れであり、死亡報道は最初に探りを入れたという事だった」と漏らしている。

 この人物によると、胡錦濤は12年11月の「18大」で決定される人事構想、特に常委の選定構想を早くから練っていたという。この構想の中で最も重要な位置を占めていた計画の手始めが、海外メディアに向けて故意にリークした11年半ばの「江沢民死亡報道」だった。これに対する江派の反応と(反撃する)力量を確かめること、そして江沢民の健康状態を把握するために、江を公の場に引っ張り出すことがその目的だった。また江の死亡を知った一般中国人の反応をみて、江を失脚させることが民意に沿うものかどうかを探ることも目的の一つだった。

 ATVが江沢民の死亡を報じると、国外メディアはこのニュースをこぞって取り上げ、国内の一般中国人は爆竹を鳴らして祝った。この事実は江派を震撼させた。江の死亡が報じられてから、江派の政治局上層部の高官が、新華網のトップニュースの中で続々と「姿を現し」、江派の安泰を強調し、最終的に江沢民は、11年10月9日に開催された「辛亥革命100周年記念大会」で、公の場に姿を現さざるを得なくなった。

暗殺されかかった胡錦濤からの反撃開始

 海外メディアが報じたところによると、胡錦濤は総書記に就任後、06年から09年にかけて少なくとも3度の暗殺に見舞われている。そのうち2回はすんでのところで黄海の藻屑と化すところだったといい、1回は上海で命を狙われた。首謀者は江沢民で、その腹心の周永康が指揮を執ったと言われている。

 06年に黄海での暗殺を逃れた胡錦濤は、北京に戻ると直ちに江派に対する反撃を開始した。最初に着手したのは軍部人事の大幅な再編で、その結果、海軍副司令だった王守業は汚職の罪に問われ、執行猶予付き死刑判決が下された。王守業のバックである賈廷安は江沢民の元腹心秘書であり軍内「河南省派閥」の頭である。また、暗殺に関与した江沢民の腹心である元海軍司令の張定発(病死)はその葬儀で、生前の序列の高さにそぐわない質素な処遇を受けた。さらに、江派の解放軍北京衛戍区の司令と政治委員が異動させられたほか、北京市副市長の劉志華と青島市委員会書記・杜世成らも相次いで罷免された。

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