反骨のルポライター・杜斌氏(上)中国の暗部にこそ伝えるべき中国の真実の姿がある

2017/05/06 15:00

 江沢民が推進した社会主義市場経済は中国を一大経済大国に押し上げたが、一方で深刻な格差の拡大、極端な利益至上主義の蔓延といった現象をもたらした。そんな中、物質的繁栄の追及が世相とも言える現代中国で、さまざまな権利をはく奪され、大衆から侮蔑され、国家から危害を加えられても不屈の精神で立ち上がってきた人々を追い続けている中国人がいる。反骨のルポライター・杜斌氏のことだ。

 共産党政権の統治下で、ほとんどの中国人が妥協と沈黙を選択するなか、杜氏は自身の権利を守るため果敢に立ち上がった勇気ある人々を記録し続けてきた。

 杜氏は私たちに、国営メディアの報道からは決してうかがえない中国の姿を見せてくれた。杜氏の撮影した数々の写真は、見る者に強烈な印象を与える。

杜斌氏の略歴

 1972年3月1日山東省郯城県生まれ。ドキュメンタリー映画の製作、取材、執筆活動を行っている。北京在住。かつてニューヨークタイムズの契約カメラマンとして活躍し、この20年余り同紙における掲載数の最も多い中国人記者としても知られている。その報道写真は、英字新聞のインターナショナル・ヘラルド・トリビューン、米ニュース雑誌『タイム』、英大手新聞ガーディアンなど、西側諸国の主要メディアに掲載され、2010年には香港記者協会より、アジアの優れた人権報道に送られる、「第14回ヒューマン・ライツ・プレス・アワーズ」を受賞した。この賞は、アジアの報道界で最も影響力のある賞の1つに数えられている。

 杜氏はドキュメンタリー映画『小鬼头上的女人(獄卒の頭上の女性)』で、馬三家女子労教所(強制労働収容所)で日常的に行われている虐待の実態を暴き、『天安门屠杀(天安門大虐殺)』では、天安門事件の真相を報じた。だがこうした報道を行ったことで13年5月31日、杜氏は北京で当局から拉致され、37日間にわたり不当に拘留された。

 馬三家女子強制労働収容所の実態を記した『牙刷(歯ブラシ)』や『阴道昏迷 马三家女子劳教所的酷刑幸存者证词(膣喪心 馬三家女子労教所の虐待からの生還者による証言)』、『马三家咆哮(馬三家の咆哮)』、そして『天安门屠杀』、『上访者(陳情者)』、『冤鬼(冤罪で死んだ人の亡霊)』など、13年以降に発表された杜氏の数々の著書や、10年間にわたり資料を収集して17年3月に発表された『长春饿殍战(長春飢餓戦争)』は全て台湾で出版されている。

ネット封鎖を突破しなければ、何も知らないままだった

 記者 あなたの著書に記されている内容と、中国国営メディアの報じるニュースにはかなりの隔たりがあります。あなたは中国当局から、「政府のあら捜しをする輩」と呼ばれているそうですが、あなたの書かれた内容は全て事実でしょうか?こうした情報を、どうやって入手されたのですか?

 杜斌 私が中国の暗部にカメラを向け続けているのを不思議に感じる人もいるでしょう。ですが、いわゆるこうした暗部こそが、中国の真の姿なのです。これは多くの中国人が知らない、もしくは気づいていない一面でもあります。

 もちろん、私もかつてはそうでした。もともと中国国営メディアでカメラマンをしていましたから。99年には、山東省が発表した報道写真の最も多いカメラマンに挙げられたこともあります。あの頃の私は当局にとって都合の良いニュースばかり手がけていました。 私の撮影した写真は、光明日報(中国当局の中央機関報)を除き、中国で発行されるほとんど全ての主要な新聞に掲載されています。

 私はよくインターネットで資料収集をしていましたが、(当局の情報封鎖により)閲覧できるページが徐々に減ってゆきました。ですが、04年にこうしたネット封鎖を突破できるソフトウェアがあることを知りました。ある米国メディアの翻訳者からそれを入手すると、私は脱兎のごとく家に帰り急いでネットにアクセスし、ネット封鎖の突破に成功しました。『見られなかったものが見られるようになった!』。

 私は興奮して、その夜は一睡もできませんでした。それはもう、鬼の首でも取ったかのようにうれしかった。中国国内ではアクセスできない、天安門事件や法輪功についての情報、中国国内では知られていない毛沢東の隠された情報など、全て閲覧できるのですから。ネット封鎖を突破しなければ、何も知らないままだったでしょう。海外からみた中国情報に触れてから、私の目の前にある中国は、本当の中国の姿ではなかったということに、ようやく気づきました。

 ですが、見れば見るほど心は沈んでいきました。普通でない状況に置かれている人々が大勢います。彼らの状況を通して、中国がいったいどんな国なのかが浮き彫りにされるからです。今まで知らなかった「もう一つの中国」を知ってから、私にも何かできることがあると思いました。自分の命にみなぎる全ての情熱をかけて、自分で(真実を)探し求め、この目で確かめました。ですから、私の記すものは全て自分で見聞きし、理解したものです。これらを、より多くの人に読んでもらいたいと願っています。

 この十数年間、私は心の平静を保とうとできる限り努力してきました。そうでなければ、毎日のように目にするひどい状況に押しつぶされそうになるからです。ですから、私はいつも良い精神状態にあります。ご覧の通り、私には家もなにもありません。仕事すらなくなってしまいました。ですが、私は自分のなすことに大きな価値を見出しています。

 

 記者 中国では、中国の抱える諸問題について関心を持っている有識者もかなりいるし、よく公に自身の考えを述べたり改善を呼びかけたりしています。ですが、法輪功や天安門事件は中国でタブーとされているため、「有識者」のほぼ全員が、これについての言及を避けています。ですがあなたはこうした問題にも踏み込んでいますね。あなたが初めて法輪功問題を取り上げたのはいつですか?

 杜斌 2004年です。そのころ私は政府への陳情者について調べていました。あるとき、ネット封鎖を突破して閲覧していた明慧ネットで、2000年にある法輪功学習者が陳情するため北京に出向いたところ、地方政府の北京駐在事務所に拘束され、かかとの肉を切り落とされたあげく暴行を加えられて死亡したという事件を読みました。私には想像もできないことでしたが、その人がかかとを切り落とされたのは、中央政府に陳情に行こうとしたからなのです。

 私はこの人物の家族を尋ねて青島に行きました。住所も電話番号も控えていましたが、電話は敢えてかけずに行きました。ものすごく緊張していたのを覚えています。自宅に着くと誰もいませんでした。何度も戸を叩きましたが誰も出てこないので、仕方なくそこから立ち去りましたが、20メートルほど行ったところで奥さんが帰ってきたのです。私がここに来たわけを告げると、奥さんは「緊張なさらなくても大丈夫ですよ」と落ち着いた声で答えてくれました。自宅にお邪魔し、写真を何枚か取りました。その後、その写真は香港の雑誌『明報月刊』に掲載されました。これが、私と法輪功学習者との最初の出会いでした。

 それからずっと、学習者の方々は非常に穏やかだという印象を持っています。自分に加えられた拷問について話すときでさえも、まるで別の人のことを話しているかのようで、とても穏やかなのです。これが信仰の力なのかと、感動を禁じ得ませんでした。

 その後、私は他の法輪功学習者の方々にもお会いしました。彼女たちの語る壮絶な体験談を、イヤホンを通じて聞いていた時には何も感じなかったのですが、その後内容を整理している時に急に恐ろしさに襲われました。彼女たちの体験談が人々に与える影響をようやく意識したのです。これは、中国の労働教育制度の暗黒の歴史です。強制収容を体験した学習者の方々にお会いすることは、簡単なことではありません。私に対する彼女たちの信頼と恵まれた幸運によって実現したのです。

独学で身に付けた報道写真技術

 記者 いつごろから報道写真の撮影を?

 杜斌 93年に兵役について、部隊の宣伝課でニュースの報道を行っていました。当時はマニュアルカメラを使っていましたね。95年に退役してからはある工場の宣伝課で働き、毎日退社時間になると、工場にある経済日報や人民日報、工人(労働者)日報といった新聞を借りてきては毎晩目を通して研究し、翌朝に返却するといった生活を送っていました。私は報道写真に関する技術を独学で身に付けたのです。そして工場の写真を撮影し、それを新聞大手各社に送りました。撮影アングルが良かったので、採用されたものもありました。当時、県委宣伝部が報奨金を出していたので、私が数千元をもらうことも何回かありました。

 宣伝部は私の写真が新聞各社に多数採用されたことを知り、県全体の通信報道員に講義するよう言いました。講義中、新聞報道に携わっているという参加者2人が、「お前みたいな工場労働者が、我々に講義するって?」と言わんばかりの、明らかに不満そうな顔をしながら、北京青年報という新聞を読んでいました。その後私は、撮影した写真をこの新聞社に送りました。するとこの会社からすぐに呼ばれ北京で仕事するようになりました。北京で他の新聞や定期刊行物と仕事したこともあります。そしてニューヨークタイムズの契約カメラマンになったのです。

新聞記者になれば、たくさんの人を助けることができる

 記者 なぜ記者になったのですか?

 杜斌 実は私は以前に詩を書いていたこともあるのですが、やはり自分は新聞記者になるべきだと思う出来事がありました。

 あるとき友人から、ある農村に住む貧困家庭の話を聞きました。その家のご主人は雇われ仕事をした時に屋根から落ちて脊椎を損傷し、寝たきりになってしまいました。奥さんは畑仕事をしていて、他におばあさんと、成績優秀な娘2人、息子1人がいました。

 私はすぐに70キロほど離れた彼らの家を尋ねました。一家に会い、「私にはあなた方を助けられるだけのお金はないが、あなた方のことを取材し、写真付きで報道したいと考えています。取材に協力していただけないでしょうか?私はあなた方から水も食べ物もいただきません。水は持参していますし、お邪魔するのも今回限りです。報道した後に、ひょっとしたら少し助けになることがあるかもしれません。反響がなければ、私にもなすすべはありませんが」と伝えました。

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