【中国「宋代四大書院」】白鹿洞書院掲示の教え④

2007年02月06日 21時01分
 【大紀元日本2月6日】江戸に幕府が開かれたのが1603年。シェークスピアが、ハムレットを完成させたのが1602年。かくして江戸の朱子学をめぐり、多くの悩めるハムレットが登場する。中国誕生の朱子学は日本においても、そのままではいられなかったのである。

 ハムレットの名せりふ「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」は、人類の内面に初めて兆した自由な、あまりにも人間的な意志の決断の迷いの表明である。この意志の自由が、人類の内面で自覚的に体験され始めたことを、ハムレットは告げる。神の摂理に代わる合理精神を手元へと引き寄せて、朱子学がこの迷えるハムレットに時代に即した手当てを施す。朱子学がもたらした理学の体系は、教えではなく学として人間の内面に、良心に代わるイデオロギーの正当性をもたらした。

 朱子学がもつこの体系的な科学性が、統治の学として徳川幕府に援用された理由でもある。日本の神道も、国学も、古学も、仏教もこの科学性と一旦は対峙することになる。悩める日本のハムレット達の格闘が、朱子学をめぐって始まったのである。やがて宿命のライバル陽明学も、この格闘に参戦し日本精神の維新に向けて激しく炎上した。

 当初日本に伝播した朱子学は、禅僧の教養として学ばれているに過ぎなかった。禅を教えとして修し、朱子学を学問として学んだ。禅と朱子学との蜜月を断ち切ったのが、日本朱子学の開祖といわれる藤原惺窩(ふじわら せいか、兵庫県、1561-1619)である。

 惺窩は神童の誉れ高く戦国時代末期から、江戸時代初期にかけて活躍した。歌道の家柄・冷泉家に生まれた。藤原定家の十二代の孫に当たる。惺窩は幼少の頃から、歌道に親しんで仏門に帰依し、京都・相国寺で仏教・儒学を学んだ。儒学を学ぶために渡明を図ったが、果たせず三十歳の時に還俗した。決然としたものを、まだ探り当てかねていたのである。戦国の世を見た惺窩の朱子学受容は、全く別様なものにならざるを得なかった。

 そうこうする惺窩にやがて、決定的な瞬間がやってくる。秀吉の朝鮮出兵時の捕虜となった、朝鮮の儒学者・姜コウ(※)(きょうこう)との親密な交流が始まる。この出会いとチャンスが大きかった。朝鮮朱子学の真髄を、姜コウから学んでやがて自在となる。これ以降仏教を排し、朱子学の中に自身を去来させた。そして神道や陽明学をも、その中に抱え込んだ。惺窩の懐は非常に広く、大きくなっていた。惺窩はやがて京学派を起こし、多くの俊秀を輩出した。その門弟の一人が、後に述べる林羅山(京都府、1583-1657)である。惺窩による朱子学の自身への徹底は、もはや禅僧の教養を凌駕するレベルのものであった。こうして日本的な朱子学を開花させる端緒が、惺窩によってもたらされたのである。惺窩において朱子学は「聖人への道」の面影を残しつつも、日本的な天の道と折り合わせようと格闘する。

 惺窩は徳川家康に朱子学を講じ、その学の深さと人品によって信任を得る。家康から仕官を何度も要請されたが、これを再三に固辞した。惺窩にはどこか現世に踏みとどまりつつも、世の中から隠遁するところがあったのである。京学派四天王の一人・林羅山を適任として推挙し、自らの分限を弁えて身を引いた。羅山はこの時、二十三歳の若さでの仕官だった。羅山が朱子学を官学として、幕藩体制の中で不動のものとした。羅山には治世の便法として、朱子学を活用する実務的な才能があった。これは惺窩にはないものだった。

(※)姜コウ:「コウ」=「氵+亢」

(つづく)
生誕地・細川町史跡「藤原惺窩銅像」(兵庫県三木市役所提供)



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