【大紀元日本10月10日】『日本の核・アジアの核』(朝日新聞)、『アジアの安全保障と原子力協定』(時事通信)などの著作で知られ、エネルギー戦略研究会会長、外交評論家の金子熊夫氏(71)が9日夕、笹川平和財団の招きにより、都内虎ノ門の日本財団内で講演、先年から国際社会の懸案事項であった米印間の原子力協定について、日本政府はこれを科学的な面ばかりでなく戦略的な大局思考で支持し、軽水炉型など民生用の技術面での協力を行うべきであり、インドのそもそもの原子力核開発の出発点が中国とパキスタンの核武装化にあるとの認識を示した。
インドの原子力開発はその歴史が古く、日本よりも10年余りも早かったことはあまり知られていない。インドの「原子力の父」ホミ・ハーパー博士が、インド独立(1974)以前から着手、当時核武装に反対していたハト派のネール首相が平和利用の国内指導に徹していたが、60年代に二度の中印戦争に惨敗したこと、中国が64年に核実験に成功したことなどから、インドも核開発など軍用への転換を迫られ、独自の核抑止策への道を歩み始めた。
1970年代に発効された核拡散防止条約(NPT)は、とくにインドの天敵「中国」が、他の四カ国(米、当時ソ連、英、仏)と同等の特権を保有していたため、インドがこれに反発して加盟拒否、ガンディ政権の1974年に第一回目の核実験を実施、結果国際社会から村八分となり、原子力分野での国際協力関係を喪失した。原子力供給グループ(NSG)は、まさにこの直後の1978年に結成されたもので、インドは真っ先にこの洗礼に遭遇、1998年には第二回目の核実験を行い、日本を初めとする世界各国から経済制裁を受けた。
9・11同時テロ以降、世界の安全保障の枠組みは大きく転換、米国が中東での二正面作戦に没入する過程で、インドとの協力関係が必要となる局面ができ、米国はその南アジア戦略を大きく転換して、インドとの二国間原子力協定に踏み切った。2005年7月、首相就任後に初訪米したインドのマンモーハン・シン首相が、ジョージ・W・ブッシュ米国大統領と会談、共同声明にて発表した後、2006年3月訪印したブッシュ大統領は、シン首相と会談し、その細部内容について合意した。
金子氏によると、米国のこうした対印政策の戦略的転換には、中東地域での安全保障上の理由だけでなく、インド自身が91年から国内経済を自由化し、その国内市場が成長しつつある魅力的なものになったこと、さらにエネルギー安全保障と地球温暖化対策としてインドの原子力拡大の必要性が生じたこと、また極東地域において中国が軍事的に台頭しその戦略核弾頭の半数以上が台湾と日本を照準にしているためにこれを牽制することなど、関係各国の地球規模での思惑が複雑に交錯し絡んでいるという。
現在インド経済は好調で、ここ数年は7−9%の成長を続け、来年は二ケタ台の成長が見込まれており、インド国内のエネルギー関係者からは、日本からの投資と技術移転を望む声が根強い。日本政府は世界唯一の被爆国として、戦後一貫して「非核三原則」を大きく掲げ、NPTの枠組みの中でも模範的な態度をとってきただけに、米印の二国間原子力協定には、「ヒロシマ・ナガサキ」の歴史的経緯から慎重な態度を保持してきた。金子氏の主張するように、これを支持して一気にインド原子力市場に参入すべきか否か、それは政府の多角的な議論と大局的な判断、世界の安全保障を見る目に委ねられている。
(記者=青嵐)
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