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【歴史の名句】「天知る、地知る、君知る、我知る」

文・心語

 【大紀元日本8月30日】

 現代社会になって、天道様を信ずる人はますます少なくなり、人に知られないように悪いことをする人は多くなっている。古代の多くの人々は、天道様を恐れて、たとえ人に見られなくても、悪いことをする勇気さえなかった。古代の中国に伝わってきた「天知る、地知る、君知る、我知る」の物語は、まさに天道様に恐れるべしことを人々に教えている。(編集者注)

 この物語は『後漢書・第54巻・楊震伝』の中に記載されている。楊震は、後漢時に弘農郡・華陰県の人であった。彼は人格が公正、清廉で、私利を図らず、得難い清廉な官吏であった。

 楊震は幼少の頃より聡明で学を好み、経書に通暁し、群書を読破し、各種の学問に対して深く研鑽していた。楊震は官吏になる前、教育事業に非常に熱心で、郷里で学校を設立・運営していた。彼の教育は身分で人を差別せず、貧富に関係なく学生の資質を見て、適切に教育したので、その名声は広く知られて、四方から教えを乞いにきた学生が多くいた。当時、人々は楊震を賞賛し、「関西の孔子」と称した。

 楊震は長年にわたり学校を設立・運営し、国家のために大量の人材を育成したため、その評判は大いに鳴り響いたので、当時の鄧・大将軍の耳にも入った。鄧・大将軍は楊震の学識とその才能を尊敬し、楊震を招いて自らの府内に登用した。その後間もなく、大将軍の推薦により、楊震は地方官吏に就任した。それから、襄城令(都市長官)、荊州刺史、東莱太守、啄郡太守を歴任した後、九卿の一つであった太仆・太常に昇任し、後にさらに三公(政権の三役)の司徒・太尉にまで昇進した。

 かつて、楊震は東莱太守に赴任する途中、昌邑県を経由した。当時の昌邑県令(県の長官)の王密は、荊州刺史に在任したときの楊震の推薦により、昌邑県令に昇任したのであった。王密は楊震の往年の温情にお返しをしようと、昼に楊震に謁見して、夜に白銀十斤を持って再び楊震のところにを訪れた。

 楊震は彼に対して言った。「私達は古くからの友人で、私はとてもあなたのことを理解しているが、どうしてあなたは私の心を理解してくれないのか?」すると、王密はこう言った。「今深夜になって、誰も分かりやしませんよ」。楊震が言った。「天知る、神知る、私が知る、あなたが知る。どうして人が知らないという事ができるのか?」王密は聞き終わった後、慙愧に耐えがたくすぐ白銀を持って帰った。

 楊震は高官になっても、公正、清廉で、個人的な頼みや謁見を受け入れず、彼の子孫は一般の人と同じように、粗食に甘んじ、歩いて外出し、生活は質素であった。古くからの友人は彼に子孫のために美田を残すようにと勧めたが、楊震は承知しなかった。彼は言った。「子孫たちに、公正、清廉の官吏の後世という名号を残して上げて、それで十分ではないか?」

 楊震は、鄧・大将軍に召されて入府してから、太尉をやめるまで、二十年余り官職に勤めていた。彼は官吏として全心身を職務に全うし、公正、清廉の品格が世人から賞賛された。王密の賄賂を拒絶する際に言った、「天知る、神知る、私が知る、あなたが知る」という「四つの知る」も歴史の名句となった。

(翻訳編集・太源)


 (09/08/30 21:36)