THE EPOCH TIMES

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(75)

2009年12月22日 13時15分
 【大紀元日本12月22日】

 中学で弟と再開

 この年、私の弟である趙全有が第二中学に合格しました。第二中学の校舎は大きな川の辺にあり、私たちの第一中の学生寮の近くです。

 ある日の晩、私が寮に帰ってみると、寝床の上を誰かが触った跡に気づきました。その上、敷き布団の下の敷物がこんもりと盛り上がっています。手を伸ばして取り出してみると、風呂敷に包まれた焼餅でした。その風呂敷に見覚えがありました。弟の義母が使っていたものでした。それで私は、弟がこれを届けてくれたのだと分かりました。

 それらはきっと、義母が弟に作ってくれたものを、義母に内緒でこっそり持ってきてくれたのでしょう。それを思うと、私は何ともことばでは言い表せない気持ちがこみ上げてきました。懐かしく、また感動的で、弟と過ごしたかつての楽しい日々が思い出されました。

 私たち二人が生母の元を離れてから9年が経っていました。この9年間、私たち二人は離ればなれに他家に預けられ、同じ屋根の下の姉と弟ではありませんでした。この数年、私は侮辱を受け続け、やっと自由になることができ、弟も大きくなり、中学に合格し、沙蘭を離れて町にやってきたのです。

 しかし、私たちは人前で仲良くしたり気遣ったりすることはできませんでした。他人の視線を避け、陰ながら互いに気遣うだけでした。私はお姉さんらしいことを弟に何らしてあげることができないのに、反対に弟が私を気遣ってくれるのです。私は本当に心苦しく、またうれしく思いました。

 私は直接弟を訪ねて行って、自ら「ありがとう」と言いたいところでした。しかし、弟のため、そして私自身のために、できるだけ噂話や厄介なことを招いてしまわないよう、ただ黙って弟の思いやりを受け取りました。

 弟は、寧安で勉強していた期間、義母が彼に食べ物を届けてくれるたびに、いつもなんとかして人に言付けて、私のベッドのところに置いておいてくれました。しかし、私はいつも心の中で、この「一」という弟に感激と懐かしさをつぶやくことしかできなかったのです。

 私もいつも他の人に弟の勉強の情況を尋ねていました。彼らのクラス担任は数学の曲先生でした。聞くところによると、曲先生は弟のことが特に気に入っていて、聡明で人情を重んじていると言っているそうでした。

 弟は、数学の飲み込みが早く、字も綺麗だそうで、試験ではクラスでいつも一番だとのことでした。私は、こんなによくできた弟のいることを嬉しく思いました。しかし、私たちには会って水入らずで話す機会もなく、彼が二中に合格してから、私が彼と会ったのはただの一度だけでした。

 ある日曜日のことです。弟が親友の孫守堂と一緒に、私たちの宿舎へ友人を訪ねてきました。私はちょうど水を汲みに行くところで、弟たち二人が門の近くに立っているのを見かけました。私はすぐに駆け寄り、彼らに声をかけました。

 弟は私に会えるとは思っていなかったのでとても喜び、私を友だちに紹介してくれました。孫守堂も私をお姉さんと呼んでくれ、私にとても親しみを持ってくれました。毎回弟に付き添って食べ物を届けてくれたのが彼で、それまで会ったことはなかったのですが、私と弟の関係はとっくに知っていました。

 弟はまた背が高くなり、いっそう利発で可愛くなっていました。黒の制服の上着とズボンを身に付け、ふっくらとして愛嬌がありました。胸には洗いざらしで色あせた名札を縫い付けていました。明らかに自分で縫ったもので、縫い目も整っていました。

 一目で、弟は物分りのいい中学生になったと分かりました。そのとき、中学2年生でした。

 (続く)

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