THE EPOCH TIMES

【伝統を受け継ぐ】伝統の墨づくり「古梅園」

2011年12月26日 07時00分
 【大紀元日本12月26日】墨づくりは1300年の歴史を誇る奈良の伝統産業である。現在、全国の書道家、水墨画家、書道愛好家などによる需要の98%を奈良の製墨11社が供給している。(奈良製墨協会資料)

 日本で墨づくりが始まったのは飛鳥時代、推古天皇18年(610年)に高句麗の僧、曇微が製墨法を伝えたと日本書紀に記載がある。奈良時代には、仏教の伝来に伴い膨大な量の写経が行われ、墨は貴重品であった。平城京では図書寮(ずしょりょう)と呼ばれる役所で4人の造墨手により400丁あまりの墨が生産されていたという。

 平安時代に入り、仮名文字が発明されると文字は一般化し需要はますます高まった。そのころになると、奈良を中心に、丹波、播磨、太宰府など、松の豊富な山がある地域でも生産されるようになった。墨の材料になる煤を松の木や松脂を燃やして採取したのだ。

 しかしその後、日本各地の墨生産は次第に途絶えて、奈良の寺院での生産が中心になっていく。その頃の中国、宋では墨の材料に松の煤を使うのではなく、油を燃焼させて採取した煤を使った格段に上質の油煙墨が開発されていた。当時隆盛を誇った藤原氏の氏寺、奈良の興福寺ではその手法を取り入れ、南都油煙と呼ばれる上質の油煙墨を生産し、全国に知られるようになった。

 戦国時代になると、織田信長、豊臣秀吉の商工業振興策により奈良の寺院で墨づくりをしていた墨工が店を構え、墨を商うようになる。その代表が天正5年(1577)創業の「古梅園」である。

 近鉄奈良駅から南へ歩いて10分ほど、椿井町にどっしりと風格のある町屋
古梅園正面(撮影・門脇/大紀元)

が建つ。登録有形文化財の「古梅園」社屋だ。屋根には「墨」と書かれた年代物の看板、入り口には「古梅園」と染め抜かれた大暖簾がかかる。夏目漱石の俳句に「墨の香や 奈良の都の 古梅園」と詠まれた老舗である。

 株式会社「古梅園」に入社して35年という岸田雅継さんの案内で、墨づくりを見学した。

 大暖簾をくぐり土間を抜け、坪庭を通り抜けると、油煙蔵のある中庭に出る。土蔵造りの油煙蔵には窓がなく、暗闇の中、三方の壁に上下二段にずらりと並んだ灯りが浮かび上がっている。
油煙蔵(撮影・門脇/大紀元)

ここでは墨の材料となる煤が採取されているのだ。菜種油、ごま油、椿油、桐油などを土器に入れ、イグサで作った灯心を燃やす、上にかぶせた土器に煤がたまる、15分ごとに土器を回転させ、煤にあたる熱を均等に保つ、この作業を若い職人さんが一人で黙々とこなしていた。

 さらに奥に進むと、大きなかまどがある。そこでは墨のもう一つの材料、膠を湯煎にしてゆっくりと溶かしているのだ。油煙蔵で採取された煤とこの膠の溶液を交ぜ合わせて練る。それに膠のにおいを消すための香料を加えて乾燥させたものが墨となる。

 かまどのある建物を出ると、パッと視界が広がり山茶花の花が目に飛び込んできた。奥にある広い中庭に出たのだ。中庭を囲むように、木型入れ、灰乾燥、自然乾燥などの作業場がある。

 木型入れの前には、墨の塊を手で練り、足で踏み、黒光りするまで練り上げる。墨1丁は15グラムだが、乾燥前には25グラムを量って木型に入れる。木型から出した湿った墨は、順次、水分含有量の異なる木灰に埋めて、ゆっくりと乾燥させる。灰を入れ替えながらその作業は30日から40日続く。その後、藁で編んで天井からつるし、半年近く乾燥させる。

 気の遠くなるような工程を経て作り出される1本の墨、黙々と仕事をする職人の技、需要の減少に何か対策を講じているかという問いに「品質の保持が精いっぱいです」という老舗の矜持、伝統の奥深さを垣間見た思いがした。

古梅園の店と岸田さん(撮影・門脇/大紀元)

自然乾燥(撮影・門脇/大紀元)

灰乾燥(撮影・門脇/大紀元)

木型入れ(撮影・門脇/大紀元)

膠を湯煎にする(撮影・門脇/大紀元)

(温)


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