「西方極楽世界漫遊記」(3)

2007年09月20日 04時01分
 【大紀元日本9月20日】
浄観塔は「宇宙の天文台」に相当

 寛浄の話では、下品の下層生命の境地に、非常に高い塔がある、これは、「浄観塔」と呼ばれ、この中の衆生は、塔の頂上に行きたければ、或いは塔の下まで行きたければ、われわれ人間のようにエレベーターを使うのではなく、彼らが「上に行きたい」と思えば、上に行くし、下に行きたければ、下に行ける。彼らの身体は、透明でぶつかることがなく、どこにいこうとも、塀を突き抜けることも、壁をすり抜けることも、自由自在に思うままにでき、何の障害もない。たとえ、数百、数千、数万人が同一の場所に集まっても、互いにぶつかり合うこともなければ、込み合うこともない。彼らは肉体の体を持っておらず、すべて透明な体になっている。

 「浄観塔」は、非常に大きく、その中では何でも見ることができ、十方世界の中のあらゆる境界を映し出すことができる。この中に入ると、例えば、われわれの娑婆世界を見ようとすれば、一粒の砂にように見える。太陽も同じような大きさに見える。もしそこの情景をはっきりと見ようと思えば、例えば、アジアを見ようと思えば、視線は瞬時に拡大され、アジアがはっきりと映し出されて来る。中国を見ようと思えば、さらに万里の長城、福建省、省内のある一軒家、その家の屋内の情景などを見ようと思えば、視線も次々に拡大され、見たいものが何でもはっきりと眼前に映し出されて来る。言い換えれば、浄観塔の中では、「見えないところはなく」、宇宙の天文台に等しい。

食べたいものは、何でも目の前に現れてくる

 極楽世界では、食べたいものが、何でも目の前に現れてくる。しかし上品の上層の衆生の多くは、既に菩薩の果位を成就したので、一般的には物を食べない。なぜならば、彼らには飲食しようとする妄想や欲望がすでに極端に少なくなり、もしくは完全に無くなっているからである。

 そのとき、寛浄は腹がすいて、白米のご飯と白菜スープを食べたいと思った。すると、すぐに白米のご飯と白菜スープが、彼の前に並べられた。食べ終えて、碗と箸を卓の上に置くと、知らないうちに碗と箸が見えなくなった。彼が観音菩薩に「どうしてこうなったのでしょうか」と尋ねたら、観音は「あなたは、空腹になったと妄想し、ご飯を食べたいと思ったからです。これは人間界で夢を見るのと同じで、夢の中に、何でもありますが、夢が醒めれば何もなくなります。あなたが食べたいと思ったら、食物がやってきて、食べ終わったら、食べたい妄想が消えたので、食物もなくなりました」と説明した。

妄想、幻境と実境

 観音菩薩は寛浄に告げた。「実際、業をもってこの世界に往生してきた人は、妄想が人間界の欲望よりも更に多いのです。なぜなら、娑婆世界は物質的で、隔てているものが非常に多く、このため、多くの物に対し、往々にして、求めても得られない苦しみがあります。しかし、極楽世界はこれとは違い、物質的ではなく、あなたが要るとさえ思えば、何でも眼前に出てきますので、享受して尽きないのです。極楽世界は、性質が虚空、至る所が法界です。天界は、神質に属し、五つの神通力を備えていますが、ときには求めても得られない現象が見られます。人間は物質に属し、何重にも阻まれ、求めても実現が難しいのです」。

 観音はさらに寛浄に告げた。「実境は、常住不滅であり、永遠に各種の光芒を放っていますが、妄境は、何色の光も放っておらず、ゆえに一旦自分の妄想が止んで醒めると、一切が空で所有するところがなくなります。人間が寝ているときに夢を見ているのと同じで、夢の中の山川事物、大都市のビルなどは醒めると皆が存在しなくなります。娑婆世界の衆生は、一生の精力をつぎ込んで、名利を求め、命を賭けて争っています。しかし、一生が終わると、何一つ持って行くことができず、魂は六道輪廻の中に落ち込み、生にしても死にしても、業力を償うために無尽の苦しみを嘗めなければなりません。ゆえに、苦海を脱しようと思えば、早く覚悟し、彼岸に向かわなくてはならないのです」。

 (完)

(翻訳・太源)


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