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歴史の中の名句「座右の銘」

作者:心語

 【大紀元日本9月10日】

 事を処理したり、人に接したり、或いは人生に対する悟りなどなどの格言を自分の座右の銘としている人をよく見かける。それらは、壁の上、机の上、或いはノートの見開きなどに記されて、常に自分の目に付くところにあり、時々刻々と自らに警告を与えているものである。

 それでは、どうして常に傍らにあって自らに警告する格言を「座右の銘」と言うのであろうか。

 銘とは、文体の一種である。古人の大部分が銘を器物の上に刻んだ。例えば鐘の銘、鼎の銘などがそれである。秦漢以降には、石碑の上にも刻まれることがあり、例えば後漢班固の燕然山の銘がそれである。銘を刻む目的は、自分に警鐘を鳴らすか、あるいは他人を賞賛するためのものである。

 「座右の銘」の語源は、崔瑗の《座右の銘》に見ることができる。呂延済の注釈によると、「瑗の兄であった璋が人に殺され、瑗が自ら仇を討った。官吏の逮捕を逃れて亡命し、大赦によって再び世に現れる。このときの自戒を銘にして刻み、傍らに置いたので、故に座右の銘という」とある。このエピソードによると、崔瑗は後漢・涿郡の安平の人で、有名な学者・崔骃の子であった。崔瑗は学を好んでこれに励み、18歳の時に上京して首都に遊学し、中侍であった賈逵に師事し、天文、歴史書、易伝に通暁し、文章字句、書道に長じた。それから後、崔瑗の兄であった崔璋が人に殺され、彼は感情的になり自らの手で仇を殺し、封建官吏の追跡と逮捕を避けるため故郷を離れ、流浪の生活を余儀なくされることとなった。

 数年後、幸運にも朝廷の大赦があり、崔瑗はついに郷里に帰ることができた。彼は自分の犯した犯罪を悔いて已まず、自らの徳行を修養するため、自らを戒める一篇の銘文を書いて、常に自らの傍らに置き、時々刻々自らの言行を警戒していた。この銘文は、「座右の銘」と称された。

 「座右の銘」はもともと、古人が席の右側に置いて自らの言行を戒める言葉であったが、後に人々はそれを傍らに置いて自らを激励したり、戒めたりする格言となった。「座右の銘」の内容は、その大部分が自らを励ましたり、自らに警鐘を鳴らし自分の言行を制約したりする基準である。

 これは通常、三種類の形式がある。一つは自ら書いたもの、一つは経典または有名人の格言を写したもの、もう一つは他人に頼んで書いてもらうものである。

 崔瑗の「座右の銘」は一番早く見られるもので、後に唐朝の陳子昂や、白居易がこれを継いでいる。たとえば、白居易の「続座右の銘」序には次のように記す。「崔子の座右の銘は、余はこれを慕う。行いきれぬにもかかわらず常に壁に書く。しかし、それには尽くしきれぬところがあり、それ故に座右の銘を継いだわけである」とある。

(翻訳編集・源太)


 (09/09/11 05:00)  





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